コッピ
史上初のダブルツール達成
1949年の第36回ツール・ド・フランスは、ツール初出場のファウスト・コッピ(1919年〜1960年)が同年にジロ・ディターリアに続き優勝し、ダブルツールの偉業を最初に成し遂げる名誉を得た。
イタリアチームは“老人”の異名をとるベテラン、ジーノ・バルタリ(1914年〜2000年)をエースとしていた。ジロは個人の戦いだが、ツールは国対抗である。だがコッピもバルタリも同チームで戦うことを嫌い、何度かの話し合いの末に半月前に両者ともそれぞれのアシストを伴いスタートラインに立つことに同意した。
第5ステージ、コッピは前輪パンクで落車し、サポートカーも現れず集団から20分近く遅れてゴールし、総合ではトップと37分の大差。総合優勝を狙う選手が序盤にこれではリタイヤするしかない。すっかりやる気を失ったが、コッピをよく知る盲目のマッサーが根気よく励ました。「バルタリが総合順位で俺より上にいるときはアタックしないと誓約書を交わしているんだ。もう俺は家に帰る」と言っていたコッピだが説得されて翌日のスタートラインに戻った。
第7ステージ個人タイムトライアルで優勝して8分のボーナスタイムを稼いだりでコッピは復調。レースは山岳のピレネーに入った。登りでバルタリは得意のインターバル走法でリードを広げるがコッピはペースを乱さずジワジワと追いつき、両者は協定でも結んだように一定差で走る。決着はアルプスに持ち越された。
イタリアチーム監督のアルフレード・ビンダは迷った。チームとしてこれまで通りダブル・エースの体制で臨むのか、それとも調子の良い方をチーム全体で支えるのか。
第16ステージ、カンヌからブリアンソンへのステージで二人は早々に集団から抜け出し、ついに一対一の戦い。ヴァール峠でバルタリがアタック、しかしコッピはイーブンペースで追い付いてくる。自分のアタックが通用しないことを悟ったバルタリはついに、イゾアール峠でこう話しかけた。「おい、今日は俺の誕生日なんだ。今日は俺に譲れよ。どうせ明日からお前の天下なんだから」。こうしてこのステージはバルタリが優勝し、同時にマイヨ・ジョーヌにも袖を通した。コッピは1分23秒差で総合2位となった。
第17ステージは標高2770mのイズラン峠と2188mのプティ・サン=ベルナールを含む五つの峠を越える難コースだった。プティ・サン=ベルナールで前日に引き続き二人のイタリア人が抜け出したが、下りでバルタリがパンクした。コッピは監督の指示を仰ごうとスピードを落とす。バルタリは5分遅れ、さらにフランス人達が追走を開始している。ビンダ監督はコッピにゴーサインを出した。残り40kmをコッピは独走で逃げ切り、バルタリに5分の差をつけ優勝、総合でも4分近い差でトップに立った。最後は第20ステージの距離137kmに渡る個人タイムトライアルである。コッピは2位のバルタリより7分も速いタイムで優勝、バルタリに15分の差をつけて総合優勝を果たした。
ヨーロッパのロードレースでは大きな番狂わせにならなければ、故郷に錦を飾らせる、誕生日に勝利を譲る、パンクでアタックしない、などの不文律がある。互いの実力が伴い関係性がないと「俺に譲れよ」とは言えない。
安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)をベースに伝説的ロードレースの逸話を紹介。