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ピエール・ラルマンは金鉱掘りのためにアメリカに渡ったがベロシペードも作って“ダンディーホース”と名付けて販売を目論んだ。出資者が現れて特許登録料を支払ってくれた。1866年に発売したラルマンのベロシペードは一時期、アメリカで売れたが重すぎることで人気は衰退した。ミショー型はイギリスでも売れたが、石畳の道を走るとガタガタ揺れて大変だったので骨ゆすり(ボーン・シェーカー)の異名があった。

ミショー型は後期になるとフレームは錬鉄の鋼が採用された。板バネ状の部分にサドルが支えられて快適性も向上、スピードを出すために動輪である前輪は90cmで後輪より10cm大きくした。装飾的な部分も増えて洗練されていった。

1867年のパリ万国博覧会に3台が出品されてミショー型ベロシペードは認知され、普及して60年代後半に「パリ自転車会社」は従業員300人を抱え、500〜625フランのベロシペードを年間1000台売るほどになった。顧客には皇族が名を連ねた。

イラスト:「オランダの自転車風俗画」ニューサイクリング1966年Vol.4より引用(元資料:©️1949:Lemet.Hilversum.Holland)

参考文献:「50のアイテムで知る図説 自転車の歴史」原書房刊、「19世紀イギリス自転車事情」共和国刊

Post Author: coppi