グレッグ・レモン(1961〜)は1984年にアメリカ人として初めてツールで3位になったことでルノー・チームから85年はイノーのラ・ヴィ・クレールへ引き抜かれた。このチームのエースはイノーが既定路線。 だが、マイヨ・ジョーヌのイノーは第14ステージのゴール前の集団落車に巻き込まれてなかなか起き上がれず、やがてゆっくり立ち上がり時速20kmほどでゴールを目指したとき、顔中血まみれで、なかでも鼻からどす黒い血が大量に滴り落ちていた。
尾骨骨折二カ所、頭部裂傷、大腿部挫傷。ルールによりゴール1km以内だったので集団と同タイムと見なされたが、この傷で翌日から走れるのか? 今こそラ・ヴィ・クレールはチーム一丸とならねばならないはずだった。だが、レモンは我慢ならなかったのである。 ピレネーに入り第17ステージの209kmでレモンは誘惑に逆らえずイノーを置いて先頭集団に付いていってしまう。後方ではイノーが鬼の形相でアシストに引かれて峠道を登っていた。結局このステージを制したデルガードに対し、レモンは2分52秒遅れ、イノーは4分5秒遅れでゴール。両者の差は2分25秒。この晩に緊急チームミーティングが開かれてラ・ヴィ・クレールのチームオーナー、ベルナード・タピはイノーに勝たせるために、レモンに“我慢代”として日本円にして三千万円ほどの金額を支払ったと言われている。こうしてレモンはイノーのアシストとしてパリまで行くことを納得した。
五勝目の総合優勝でアンクティルとメルクスの記録に並んだイノーは、「六勝目に興味はない、来年はレモンをツールで勝たせる」と宣言した。
苦い思い出
そんな因縁つき1986年のツール・ド・フランス、総合優勝六回目という初の栄誉をイノーが本当に最初から放棄するのか? しかも彼は以前から32歳で引退すると言い続けてきた。1954年生まれのイノーは秋に32歳になるのである。
レモンはラ・ヴィ・クレールのエースとしてジロ・ディターリアで4位、総合優勝を狙うエースとしては物足りない成績だった。ツール・ド・スイスでも僚友ハンプステンの後塵を拝していた。レモンにはチームのエースとしての能力がまだないのではないか? いざツールが始まってみると、エースナンバー一番はイノーがつけていたのである。レモンの心中はいかなるものだったろう。
プロローグで久しぶりにイノーが破れた。その後、第9ステージ62kmの個人TTで、イノーはレモンに44秒の差をつけて優勝、総合でレモンを49秒上回った。フィニョンは全くさえず3分42秒も遅れてしまった。ピレネーの第12ステージでイノーはデルガードとともにアタック、レモンに4分36秒の差をつけてゴールしてしまう。総合でトップに立ったイノーと2位レモンの差は5分25秒と決定的なものになった。レモンはイノーの約束を信じていたのに裏切られた気持ちだっただろう。
第13ステージも三つの峠を越えてシュペルバーニュにゴールという難コースだった。このステージのイノーの動きはいまだに議論の的である。イノーはまたしてもアタックを繰り返し、一時期はレモン等の集団に2分30秒近い差をつけるが、ペイルスルドで吸収されると最後のシュペルバーニュの登りで千切れ、レモンが並みいる山岳スペシャリストたちを振り切って優勝する。イノーは4分39秒遅れで総合ではまだトップだが、レモンとの差は40秒となった。前日のリードは完全に帳消しである。
ここでのイノーの動きはイノー側から言えば「ライバルたちを罠にかけるため」ということになり、レモンの側から言えば「イノーの裏切り行為」となる。様々な評論家が意見を言ったが、誇り高いイノーの性格を考えると、彼がレモンを勝たせると公言したことに嘘はなかったと思う。ウォルッシュが『ツール・ド・フランス物語』のなかで推測するように、イノーはツール六勝目を狙いはしなかったが、アタックしてしまったというのが真相ではないだろうか。
さて、アルプスの第17ステージ、ヴァール峠、イゾアール峠を越えてグラノンを登る190kmでイノーはふくらはぎの痛みを訴え、レモンから遅れること3分以上でゴール。ここでレモンがアメリカ人として初めてマイヨ・ジョーヌを身につけた。総合3位に落ちたイノーとの差は2分47秒である。
第18ステージ、ラルプ=デュエズへ登るコースではレモンとイノーが総合2位のツィンマーマンに揺さぶりをかけて振り切り、猛スピードで下って、最後はイノーが先導するかのようにレモンを引っ張り、両手をつないで、1938年の最終ステージでマーニュとルデュックの伝説的シーンを彷彿とさせるゴールとなった。3位ツィンマーマンはここで完全に遅れて総合で7分41秒差となった。
前年に最後のTTでレモンが意地を見せたが、今回はイノーの番だった。イノーの行動に疑心暗鬼となっていたレモンはカーブで転倒、イノーが25秒上回った。総合順位に影響はほとんどなかったが、レモンとしては苦い思い出の総合優勝だった。
この記事は安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)より引用し、coppiがまとめました。
上の画像はリチャード・ムーア著「Slaying the Badger」の表紙。1986年のツールを多面的なインタビューで浮き彫りにした。amazon で電子書籍1,670円