トム・シンプソン(1937〜1967)は、ツール・ド・フランスの1967年7月13日、第13ステージ、総合13位でモン・ヴァントゥーの登りで死んだ。西洋では不吉とされる13の符号は偶然であろうが、それにしてもよくそろったものである。
総合優勝はツール三度目のフランス人ロジェ・パンジョン。第5ステージで単独アタックの末にステージ優勝を飾りマイヨ・ジョーヌを着ると、一日だけ同じフランス人のレイモン・リヨットに譲った以外はパリまで着続けたが、この年のツールはトム・シンプソンの名前で記憶されている。
暑い日だった。道路のアスファルトも溶けるほどで、日陰でも40度を越えていた。マルセイユからカルパントラへの211kmあまりを選手たちはただ灼熱地獄から逃れたい一心でゴールに向かっていた。だがゴールへ行き着く前に2000m近いモン・ヴァントゥーを越えなければならなかった。途中からは木陰ひとつない禿山である。選手たちは上からは直射日光を浴び、下に転がる白い岩屑からの反射光に晒されながら山頂に登っていかなければならない。
モン・ヴァントゥーへの登りにさしかかり、シンプソンの調子は最初それほど悪くなかったようである、しかし山頂まであと3kmの地点で彼が乗る白いプジョーは突然道いっぱいに蛇行しはじめ、路肩の瓦礫につっこんで止まりそのままひっくり返った。彼は駆け寄った観客に「立たせてくれ、行かなくては」と言ったという。観客たちが自転車に乗せて押したが、すぐにまたジグザグにふらつき昏倒、意識を失った。
ツールのドクター、ピエール・デュマが呼ばれ、即座に人工呼吸と酸素吸入が行われ、その間に到着したヘリコプターでアヴィニョンの病院へ急送されたが彼の意識は二度と戻らなかった。シンプソンのマイヨのポケットから興奮剤アンフェタミンの小さなアンプルが三つ見つかった。そしてそのうち二つは空だった。
前年の1966年にはツールにドーピングチェックが導入されていた。それまでも興奮剤の類が使われていることは知られていた。遡ること1924年のペリシェ兄弟のリタイヤ騒動のとき、ペリシェたちは「ダイナマイトと呼んでいる危ない代物」のおかげで過酷なレースに耐えられるのだと発言している。当時すでにコカインを少量飲んだり、バターと混ぜて足に塗ると効果があると言われていたらしい。疲労や痛みを感じたらクロロフォルムを歯茎に塗り込むというのもよく行われていたようである。コカインも筋肉痛を和らげ、心拍を上げて血液中の酸素濃度を上げる効果があるが、むろん使用を間違えれば死に至る危険性がある。
ツールでは目立たなかったが、個人ロードの世界チャンピオンに三回なったベルギーの大スターであるリック・ファン・ステーンベルヘンも「毎日レースを続けて常にフレッシュな姿を見せなければならない選手にとって興奮剤は不可欠」と述べた。こうした証言は枚挙にいとまがない。1966年の春、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュでアンクティルは優勝後のドーピングチェックを行わなかったためにいったん優勝を取り消されている(その後撤回)。そのアンクティルは「ミネラル・ウォーターだけでボルドー〜パリを走ることができるかい?」と発言している。
シンプソンの死因は疲労と暑さに加えて興奮剤とアルコールを過剰摂取によるものと発表された。彼が摂取したと思われるアンフェタミンは致死量ではなかったからである。アンフェタミンはシェリー酒やコーヒーと混ぜるとより効果があると当時の選手たちに言われていた。
ここではっきり意識しておかなければならないのは、ドーピングや薬物依存であり、薬物依存という言葉がすでにその実体を明らかにしているのである。効き目があっても使用方法を間違えれば副作用を引き起こし、最悪の場合は死ぬ可能性があるのが薬であり、またある種の習慣性がある。そしてコカインやアンフェタミンは覚醒剤であるということを忘れてはならない。
この記事は安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)より引用し、coppiがまとめました。