パスカル・シモン(1956〜)は兄弟すべてが自転車選手。フランスで四兄弟として真っ先にあがるのがシモン兄弟だろう。 シモン家では長男がパスカルである。ちなみに次男のレジスは1985年の第18ステージBで、三男のジェロームも88年の第9ステージで区間優勝している。 2001年のツールでは次男のフランソワ・シモンが一時的にマイヨ・ジョーヌを着た。最後は総合優勝に全く届かなかったが、これによって多くの人々が1983年のツールを思い出すことになった。彼の長男パスカル・シモンの英雄的な闘志を。
1983年のツールである。五勝目を狙うべきイノーはブエルタに優勝しながら再び右膝を痛めて参加を取りやめた。イノー不在のなか、序盤はキム・アンデルセンが第3ステージから第8ステージまでデンマーク人として初めてマイヨ・ジョーヌを着たが、トゥルマレ、オービスク、アスパン、ペイルスルドと四つの峠を越えるピレネーの第10ステージ、210kmのコースで山岳スペシャリストたちが一斉に動いた。
レースはプジョーのスコットランド人ロバート・ミラーがレイノルズのペドロ・デルガードの追撃をかわして優勝、このステージで3位に入った同じプジョーのパスカル・シモンが総合でトップに躍り出た。 総合2位のローラン・フィニョンに4分22秒差。優勝候補のズーテメルクやファン・インプは5分以上の差がついていた。
迎えた第11ステージ、集団の中で不注意からシモンが転倒、運悪く左の肩甲骨を骨折してしまった。ここからシモンの伝説が始まる。
医者の応急処置後、彼はアシストのステファン・ロッシュのおかげで何とか集団に追いつき苦痛に顔を歪ませながらゴールしたが、翌日のスタートは疑問視された。レキップ紙の見出しは「シモン、戦闘不可能」だった。しかしここからツールは盛り上がりを見せることになる。毎日街道には人々が集まりシモンに声援を送り、マスメディアはまだシモンがマイヨ・ジョーヌを守っていることを詳しく伝えた。
肩をきつくテーピングし、苦痛に耐えながら走る彼の姿はフランス中を感動させたのである。ジルベール・デュクロ=ラサールをはじめとするプジューのアシストたちも懸命にシモンを守った。一方、優勝候補に挙げられた老雄ズーテメルクはまたしてもドーピング・チェックに引っかかり10分のペナルティータイムを加えられて優勝争いから脱落した。
さて、アシストに援護されながら走り続けてきたシモンだが第15ステージ、ピュイ・ド・ドームへ登る16kmの個人TTは自分の力だけで走らなければならない。ここで彼はトップに5分10秒遅れ、10位のフィニョンとの差は一気に52秒になった。そして第17ステージ、ラルプ=デュエズへ登る23kmのステージで遂にシモンは力尽きて自転車を降りた。しかし彼はイノーのいないツールで感動の嵐を引き起こし、ファンの心を強くつかんだのである。
シモンの後でマイヨ・ジョーヌを獲得したのは弱冠二十二歳の、下馬評にも上がらなかったローラン・フィニョンだった。彼はその後の山場ではスペインのアンヘル・アローヨやオランダのペーテル・ヴィネンの追い上げをかわし、第20ステージの50km個人TTで2位に30秒以上の差をつけて優勝、パリに凱旋した。
この記事は安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)より引用し、coppiがまとめました。