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アンドレ・ルデュック1904年〜1980年

1930年、ツールの総合ディレクターであるデグランジェは企業チームを排除して、各国のナショナルチームだけを招待した。ベルギー、イタリア、スペイン、ドイツ、そしてもちろんフランスが、それぞれの国の選抜チームをパリのスタートラインに送り出したのである。1チームは8人で構成され、これ以外に80人の個人参加選手が地域チームに振り分けられた。同時にチーム順位の表彰も行なわれるようになった。

それまでツールは企業の闘いだった。企業といっても自転車メーカーやタイヤのメーカーのチームで、選手たちが現在のように様々な企業の派手な広告塔としての役割を果たすことはなかった。だが、企業チームを排したことでレース運営のための資金繰りが問題になった。そこでデグランジェは多くの企業に宣伝キャラバンへの参加を呼びかけた。「ツールは世界がまだ知らない宣伝媒体です。1千万から1千500万人の人間が、フランスの街道沿いで選手たちに歓声をあげるのです。もし貴社がレースを先導する宣伝カーを走らせれば、これらの人が貴社の存在を知るでしょう」のアイデアに反響はもの凄かった。こうして今日まで続く広告キャラバン隊が生まれたのである。

さて、この年のファンを夢中にさせたのは2人のフランス人選手だった。スキャンダルメーカー、ペリシェ兄弟の末っ子シャルルはその荒っぽいスプリントで人々を興奮させた。第6ステージでは集団スプリントでイタリアの英雄アルフレード・ビンダのマイヨを引っぱり、トップでゴールしたにもかかわらず失格になっている。

もう1人はアンドレ・ルデュックである。彼は「俳優の顔と鉄の筋肉」と歌われたように、知的でスマートで、なにより25回のステージ優勝という歴代3位の記録を残している。

1932年にもアンドレ・ルデュックは、ステージ6勝、2位2回、3位3回になりボーナスタイム31分を獲得して総合優勝を果たした。

安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)をベースに伝説的ロードレースの逸話を紹介。

Post Author: coppi