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房総半島で暮らすことが多いのですが先日、郷土史を読んでいたら千葉にも“御成街道”があることを知りました。

江戸時代、船橋から東金まで40kmあまり続くほぼ一直線の道は、将軍がしばしば鷹狩りをするために通った道で“御成街道”と呼ばれました。徳川家康の命令で慶長19年(1614)に、周辺の数十ヵ村の農民を動員して短期間に作られたそうです。

東京にも御成街道はある。銀座通りの延長、中央通りが秋葉原から御徒町へのメインロードですが江戸時代はそれより一筋奥(湯島側)が “御成街道”で、時の将軍が毎年正月十日にそこを通って上野・寛永寺に詣でる慣習が六代将軍のころからあったそうです。

  • 上野松坂屋に近いクランク状交差点が、古く自転車卸問屋などが立ち並んだ御成街道の出口で現在は黒門児童公園がある地点

実はその御成街道に大正時代から昭和初期に多くの自転車卸商や自転車関連が集まっていたとか。雑誌「輪友」の記事だと思われますがこんなのがあります。

  輪界の盛衰その儘 明治の頃は通販で火花 御成街道物語

 すでに明治中葉に「御成街道に行ってくる」という言葉はそのまま、自転車の用事で他出するということに通じたという。明治35年頃にはすでに山本商店、杉野商会、照井商商会などが盛大に仕事をやっていたと古老は語っている。

とまあ、店名を見てもチンプンカンプンかもしれませんが、秋葉原電気街の機関誌「Be VAP」秋葉原物語・連載七にも

  秋葉原に単一の問屋、商店が並ぶようになったのは実は電気店が最初ではない。自転車問屋が最初なのである。大正の終わりから昭和の初めにかけて、江戸川、荒川方面に自転車の零細部品工場が多くなり、これを組み立てて卸す自転車問屋が御成通りに集まりはじめた。「その品質の優秀さで、全国の70%を産し、御成通りの自転車の名は全国に知れていました」(千代田区史より)という。

 これは、「昭和26年度版 東京自転車問屋街案内図」(日本自転車新聞)の問屋街レポートで約140もの卸問屋と関連会社が描かれています。

スポーツ車の好きな人だと、日直商会、野口商会、東京サンエスなどの卸問屋が馴染みあるでしょう。これらの老舗卸問屋は21世紀の今でも御徒町近辺を本拠地としています。経営者はみんな江戸っ子ですね。

Post Author: coppi