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上の4つは左から「大洋工業」、「鐘淵機械工業」(販売:淡島商事)、「和田盛輪社」、「島野工業」でいずれもスターメーアーチャーを参考にして作られたハブギヤ。

戦前から島野庄三郎や前田鹿之助と同じく、舶来品に劣らないギヤの製作を目論む人物は数多くいた。内装ギヤの特許は1935年(昭和10年)に川崎の吉本三郎、2年後に名古屋の伊藤勝次郎(三速ハブ)、その翌年に東京の及川幸四郎という人物が特許を取得している。

第二次大戦で英国の内装ハブ(Sturmey-Archer製とBSA製)の輸入が途絶えると、1943年(昭和18年)創業の大阪の鐘淵機械工業と平田製作所という会社がSA(スターメーアーチャー)のコピーを少量製造していた(平田製作所は未確認情報)。

戦後は1952年から鐘淵機械工業が主に輸出用として製造を始めた。このハブは55年から大阪の淡島(たんとう)商事が66(TWO-SIX)という名称で国内販売を始めた。66ハブは発明家・大河原禄々の特許1952年(昭和27年)による。

66(TWO-SIX)

1956年(昭和31年)には島野工業(333)、東京の和田盛輪社(ワーデン)山本鉄工所(Diana 二速ハブ)が製造を始めた。他にも浜松市の城北機業(JO)、石田製作所、大阪の太洋工業(ゴールデンボア)、南海鉄工などがあった。当時は鐘淵機械工業の66が島野工業のライバルといえる。

他にも東京では葛飾の日本自転車変速機製作所と墨田の三ヶ月ギアが遊星ギヤを用いた二段変速クランクを製造していた。レバー操作が不要で下死点からクランクを逆転させるとガチャンと変速した。

昭和25年、島野鉄工所から島野工業と社名を改めた。昭和33年に創業者の庄三郎が亡くなると二代目の島野尚三が経営を引き継ぎいだ。弟の敬三は社内にまだ残る職人気質と大卒若手との対立に腐心して盛りたてた。

1954年(昭和29年)から外装変速機と内装ハブの国産化を目指していた。外装変速機は翌55年に試作され56年には輸出も含めて月産2万個の生産体制だったが57年に国内サイクリングブームが終焉して在庫の山となり生産に見切りをつけた。

シマノ最初の外装変速機

内装ハブは1957年から生産を始めた。同種の製品は国内で他社も製造していた。同年に慶應大学を卒業して不二越鋼材にいた島野敬三が設計部に入った。敬三は独自の新型ハブを設計した。さっそく東京大阪間600㎞の耐久テストを実施し、舶来品よりも優秀な結果となった。小さく、軽く、高効率の新型ハブは安価な新型はまさに“爆発”的に売れた。月産5000個はあっというまに1万個、翌年には5万個に伸び続けた。島野の内装ハブは新工場の冷間鍛造技術により輝いていた。

シマノ内装ハブ

1965年(昭和40年)には国内の内装ハブ市場を島野工業が独占することになった。

Special Thanks●六城雅敦

Post Author: coppi