ユジューヌ・クリストフ 1885年〜1970年
悲劇のヒーローとして語り継がれているのがユジューヌ・クリストフだ。
1913年のツール・ド・フランスは、29日間15ステージで総距離5387kmで、初めて反時計回りにフランス一周をするコース設定がなされた。同時にポイント制がらタイム制になった。
第6ステージ、バイヨンヌからリュションへの6つの峠を含むコースで果敢にアタックを試みたのはユジューヌ・クリストフだった。彼はそのとき総合2位で、トップは前年の優勝者オディーレ・ドゥフライエだ。両者はプジューとアルションというライバルチームに属していた。クリストフのアタックに、疲れきったドゥフライエはやる気もうせてリタイヤ。
トゥルマレ峠は、いまや唯一のライバルになった同じチームのフィリップ・テイスに18分の差をつけて通過。クリストフの総合優勝が近づいたかに思われた。彼がハンドルの異常に気付いたのはそこからの下りでのことである。止まってみるとフォークが折れていた。
この時代の機材故障は致命的だった。代わりの自転車はなかったし、交換部品すらなかった。もしホイールが壊れれば、自分の力だけで直さなければならなかった。
かくしてクリストフは鍛冶屋を求めて自転車を肩に担ぎ、折れたフォークを右手に持って14km離れたピレネーの小村サント=マリー=ド=カンパンに急いだのである。鍛冶屋に到着すると彼はすぐにハンマーと金床でフォークの修理を始めたが、後ろで総合ディレクターのデグランジェと3人の審判が、本当に彼がひとりで修理するかを監視していた。
結局、クリストフはこのステージでトップから3時間50分遅れてゴールした。しかし彼の後ろではまだ15人の選手がいたのである。
デグランジェは彼の行為に最大級の賛辞を惜しまなかったが、レース規則第45条2項「修理に際しては誰の手を借りてもならぬ」に違反したとしてペナルティを課した。クリストフがハンマーと金床で修理をしている間、鍛冶屋の7歳の少年が彼のためにふいごを操作していたからである。
クリストフの最終成績は総合7位。優勝はベルギーのフィリップ・テイスだった。こうして悲劇のヒーローとなったクリストフは一躍フランス中の人気者となった。舞台のサント=マリー=ド=カンパンの鍛冶屋には、この事件の記念碑が現在も掛けられている。
安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)をベースに伝説的ロードレースの逸話を紹介。