ローラン・フィニョン(1960〜2010年)は他の選手とはちょっと違う雰囲気を持っていた。楕円形ニッケルフレームの眼鏡をかけ、パリのソルボンヌ大学で獣医学を学んだ。スタートを待つ間に外国語の新聞を読むこともあった。むろん自転車選手のなかには大学チャンピオンからプロに転向した者や教職をなげうってプロになった、いわゆるインテリ選手もいないわけではない。しかし、フィニュンの雰囲気はこれまでの自転車選手のイメージを打ち破るものだった。彼は自分のプライベートについては決して語らず、レポーターやファンからクールに距離を取っていた。
1984年のツール、フィニョンは何としても勝ちたかったことだろう。前年の勝利は常に「もし」がつきまとった勝利だったからである。
曰く、「もしイノーが出ていたら」。曰く、「もしパスカル・シモンが肩甲骨を骨折しなかったら」。曰く、「もしズーテメルクがドーピングチェックに引っかかって10分のペナルティーを課せられていなかったら」。曰く、「もしアルプスを前に5位のデルガードが消化不良で体調を崩さなかったら」
膝の故障で前年のツールを欠場したイノーにしても、五度目のツール制覇がかかっていた。この間に彼はルノー・エルフ・チームを離れ、新たにフランスの若手企業家ベルナール・タピが彼のために作ったチーム、ラ・ヴィ・クレールに移っていた。しかしプロローグこそイノーが優勝したものの、その後はルノー・チームの組織力の前に為すすべもなかった。
第5ステージでルノーのヴァンサン・バルトーがマイヨ・ジョーヌを着るとそのまま第16ステージまで守り、次のラルプ=デュエズのステージでフィニョンにバトンタッチ、フィニュンがパリまでマイヨを守って総合ニ連覇を果たしたのである。2位のイノーとの差は10分32秒。誇り高いイノーにとって屈辱的に感じたのはプロローグを除く三つの個人TTをすべてフィニョンにとられたことだ。
第17ステージ、ラルプ=デュエズの151kmでイノーは最後の賭けに出た。アタックを繰り返しなんとかフィニョンを引き離しにかかるが、フィニョンは千切れない。逆にゴール10km手前でフィニョンがアタック、イノーはずるずると遅れていった。ここで総合優勝争いはほぼ決まった。このステージだけでイノーに3分差をつけてしまったのである。もうファンも評論家も「もし」とは言わなかった。パリの新聞はステージ五勝を挙げて総合優勝したインテリレーサーを “太陽王”とすら呼んだのである。
この記事は安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)より引用し、coppiがまとめました。