ヨープ・ズーテメルク(1946年〜)は1980年、長年在籍していたミコ=メルシェのチームからオランダのTIラレー・チームに移籍してツール・ド・フランスに臨んだ。 この年も優勝候補の筆頭はイノーだった。春先のリエージュ〜バストーニュ〜リエージュに優勝し、さらにジロでもサロンニ、モゼールというイタリアのスーパースターを破って優勝。人々の興味はイノーのダブル・ツール達成を誰が阻止するのか、できるのかということだったが、前年に続いてイタリアのサロンニ、モゼールはどちらも参戦しなかったので、ライバルは今年も真っ先にズーテメルクが挙げられた。
フランクフルトのプロローグで勝ったのは予想どおりイノーだったが、このツールで前半の話題をさらったのはベルギーのスプリンター、リュディ・ペーフェナージュだった。第2ステージを三人で逃げて後続に約10分のリードを奪った末にゴールスプリントで勝った彼は、続く第3ステージでマイヨ・ジョーヌを獲得、第10ステージまでそれを守り続け、その後もグリーンのスプリンター賞ジャージはパリまで守ることができたのである。
さて、第11ステージは52kmの個人TTだったが、優勝したのはズーテメルクだった。イノーは彼に遅れること1分半以上。しかしマイヨ・ジョーヌはイノーが21秒差で手にした。だがイノーは右膝の痛みを訴える。ピレネーを翌日に控えた第12ステージ終了後、夜の10時半に突然リタイアを発表する。激しい右膝の痛みは監督のシリル・ギマールの口から語られ、すでにイノー本人はその時点で宿泊地にとどまらず混乱を避けるために所在不明となっていた。
こうして総合2位につけていたズーテメルクは難なくマイヨ・ジョーヌを手に入れた。その後、第20ステージの35kmほどの個人TTでほとんどの選手たちに1分以上の差をつける圧倒的な強さで優勝し、2位の同じオランダ人でプジョー・チームのヘンニー・コイペルに7分近い差をつけて、念願の初優勝を遂げた。32歳での優勝は戦後では1948年のバルタリと並ぶ最年長記録である。最終日のパリはオレンジ色のオランダ国旗で埋め尽くされ、オランダからのファンを乗せたバス350、自家用車は一万台で、パリは完全にオランダ人に占拠されたという。
ズーテメルクは全部で十六回ツールに参戦している。これは最高記録であり、しかもすべて完走している。総合2位が六回もあり、万年2位と呼ばれたプリドールよりずっと多い。彼は18歳から自転車競技を始め、3年後にはメキシコ・オリンピックのチームTTで金メダルを獲得してプロ入りした。ツールは1970年に初出場で2位、その後2位、5位、4位と常に上位争いをしてきたが、1974年にツール直前のミディ・リブレで転倒し頭蓋骨骨折の大怪我を負い、さらに脊髄炎を起こして生死の境をさまよった。もしもこの事故がなければ彼は1970年から1986年まで、17年連続でツール参戦という大記録を打ち立てたはずだった。
この記事は安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)より引用し、coppiがまとめました。