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エディー・メルクス(1945〜)は、“不世出”と形容するにふさわしい天才選手だ。貪欲な勝利へのこだわりと強さから“人喰い”(CANNIBAL)と呼ばれた。

1965年、19歳でプロ入りしたメルクスは、2年目の66年にミラノ〜サン・レモで優勝、翌67年には世界チャンピオンになり、68年にはパリ〜ルーベに勝ち、さらにジロ・ディターリアで最初のベルギー人総合優勝者になっている。この年の春、最古のクラシックレース、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュでも優勝。1969年は満を持してのツール参戦だった。

メルクスの記録は空前絶後としかいいようがない。名のあるレースで彼が勝てなかったのはパリ〜トゥールとチューリッヒ選手権ぐらいだろう。ツールとジロに5回ずつの優勝を果たし、世界チャンピオンには3回、ミラノ〜サン・レモでは7回、ツール・デ・フランドル2回、パリ〜ルーベ3回、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ5回、ジロ・ディ・ロンバルディアでも2回の勝利をあげている。

さて、初参加のツールだが、それより数週間前に行なわれたジロ・ディターリアの第12ステージ終了後、メルクスはドーピングのために組織委員会から何の説明もないまま失格とされている。メルクスはプレスインタビューで号泣しながら無実を訴えたがどうしようもなかった。通常ドーピングによる失格は、国際自転車競技連合から出場停止処分が下されるのが普通である。このときもいったんは1カ月の停止処分が下されたが、まもなくそれは撤回された。

こうして参加したツールである。怒りにまかせたメルクスの大爆発は、本人および彼を応援する者にはさぞかし爽快であったに違いない。初日のプロローグこそアルティッヒに破れたが、翌午後のチームTTでメルクス率いるファエマのチームが優勝して早くもマイヨ・ジョーヌを手に入れる。

これはすぐに明け渡すが、バロン・ダルザスを登る第6ステージで、脅威の粘りを見せたアルティッヒを頂上直前で振り切り優勝、総合トップにたつと、今度は最後までマイヨ・ジョーヌを手放すことはなかった。特にピレネーの第17ステージではオービスク、トゥルマレの峠を含む140kmを1人で逃げ続け、このステージだけで7分の差をつけてしまった。結局、総合2位のパンジョンとはほぼ18分という大差がついている。いや、それ以上に驚嘆すべきはスプリント賞も山岳賞も獲得していることである。チームTTを除いた22のステージのうち優勝6回、2位4回、3位が1回、つまり半分は3位以内である。もちろんドーピングチェックでも疑わしいところは全くなかった。『レキップ』紙の見出しには「メルクス、ツール独り占め」と書かれていた。

トリプルクラウン完成

1974年、メルクスはこの年にツール・ド・フランス、ジロ・ディターリア、世界選手権を勝って三冠を達成。イタリア人選手ミケーレ・ダンチェッリはこう言っている。「メルクスには今後ジロに出ないように言って、みんなで金でも渡すしかないね」

これは1930年、あまりに強過ぎるアルフレード・ビンダにジロの主催者が巨額の金を支払い、出場を見合わせてもらったという伝説を受けての発言である。しかし、この気持ちは多くの選手に共通のものだった。彼の勝利への飽くなき執着が、彼の出るレースへの興味を奪っていった。他チームのスポンサーたちは、ただメルクスの引き立て役に過ぎない自分のチームに金を出すことに疑問を感じ始めていた。皮肉なことに、自転車競技を世界中に広めたメルクスが、同時に自転車競技を危機に陥れていたのである。

この記事は安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)より引用し、coppiがまとめました。

Post Author: coppi