第2話で予告したエピソード主人公は、戦後のサイクリング文化に多大な影響を与えたNCTCメンバーの鳥山新一(1919~2021)さんだ。上の写真はブリヂストンのSS10。60年代に鳥山がアドバイザーになり人間工学を取り入れた本格的なスポーツサイクルが作られた。
1952年(昭和27年)に通産省の産業支援で自転車産業振興協会は鳥山を欧州に派遣した。プロペラ機は給油を何度も繰り返してドイツに降り立った。鳥山をまず悩ませたのが文化の差。まずは“サイクリング”=cycling(英)cyclisme(仏)ciclisimo(伊)の翻訳だ。サイクリングとは旅行やハイキングといったレジャーから、シビアな競技まで幅広い意味を含み、楽しみ方は自由だ。ところがヨーロッパ各国でも、たとえばイタリアでは主にレース競技を指し賭け対象であるように大衆の楽しみは少々異なっている。日本はサイクリングを教練的に「行軍」「鍛錬」「集団規律」と捉える傾向が当時は根強く、鳥山が見た海外のサイクリングは別世界だった。
当時フランスでは信頼性を競う “Poly multipliee Chanteloup”(通称ポリー:多段という意味)や軽量化“Grand Prix Duralumin”(通称コンクール・ジュラルミン)といった技術コンクールが数多く実施されていた。大小の工房が切磋琢磨でサイクリング車をより良くする熱意に驚き、600を越える欧州部品を携えて帰国した。
自転車海外情報
自転車生産技術誌や自転車雑誌に連載された鳥山の詳細な技術解説は、国内自転車産業への大きな刺激となった。敗戦直後の日本は資源統制で満足な自転車生産はできず、新興国向けの細々とした輸出が精々だった。外装変速機はすでに1947年(昭和22年)三光舎が発売していたが、NCTCでも齋藤製作所で49年(昭和24年)にSPEED-X製作をした。しかし時期尚早で販売は芳しくなく、NCTCによる最初の変速機は失敗に終わった。それでもあきらめず、蒲田でネジ製造を本業としていた岩井経一は鳥山の勧めでツーリング変速機の研究を始めるのだった。やがて岩井の変速機はツーリング・ディレイラー「イワイ・サンツアー」(1958年)として結実。関西では前田鉄工で販売された。
参考にされたサンプレックス
岩井サンツアー
1951年(昭和26年)、『日米自転車レース』のためにSimplex Tour de Franceが装着されたフレンチレーシングバイクが日本に運ばれた。このレースをきっかけに翌52年(昭和27年)には三光舎、岩井鉄工所、島野鉄工所の共同で舶来変速機(campagnolo、Simplex、Huret、Cyclo)の研究が始まった。模倣から国産変速機は始まった。
戦前から生絲と自転車は主な輸出品だ。国内ではリヤカーの増産が優先されている状況でもサイクリングは映画「青い山脈」49年(昭和24年)以降、銀幕にサイクリングの男女が登場し、いっきに認知された。ブームを追い風に54年(昭和29年)に全国組織の日本サイクリング協会(JCA)(文部省傘下の財団法人化は64年)が創立された。NCTCからは鳥山と前田安雄、岩井製作所に勤めていた左近光三の3人がJCA理事に就任した。サイクリング普及のために鳥山や前田の執筆は入門書のみならず、週刊誌から小学生・中学生向けの学習雑誌にまで及んだ。
1966年(昭和41年)には日本の自転車生産数が世界一となり、主要輸出品となった。しかしサイクリングが認知されたとは言いがたく、鳥山が推すランドナーは皮肉にもNCTC内での軋轢を生み、鳥山はNCTCから距離を置くようになった。以降、鳥山は企業のアドバイザーとなり戦後にタイヤ事業の一部門として自転車生産を始めたブリヂストンサイクルが1963年(昭和38年)本格的なランドナーを発売することに関わる。それが冒頭で示したSS10だ。
鳥山の熱心な指導は津山金属(現CATEYE)といったアクセサリー製造会社にまで及んだ。当時のメーカーで鳥山の影響がないところはない。内装変速ハブの大手であった島野工業も鳥山の指導で外装変速機の開発に着手していた。鳥山の影響が強いのは、皇室へ献上もされた丸都自転車から独立した打保梅治の東叡社であることは言うまでもないだろう。
各地にスポーツ車専門店ができると自然にサイクリングクラブが発生した。JCAの発足の翌年、鳥山新一、今井彬彦、高橋長敏、左近光三らで東京サイクリング協会(TCA)が発足。こうして鳥山新一の “大人のサイクリング文化”が少しずつ前進していった。
Special Thanks●六城雅敦