自転車はドイツで生まれ、フランスで洗練され、イギリスで現代の自転車のルーツとなるカタチが確立した。
舞台は19世紀後半、自転車発祥地のひとつであるフランス生まれのベロシオ(1853年〜1930年没、本名ポール・ド・ヴィヴィ)は、外装変速機の父であり求道者だった。
イギリスのコベントリーで自転車製造が巨大工場で作られていることをベロシオは知り、1886年に故郷のサン・エティエンヌでイギリスから自転車の輸入業を始めた。88年に自転車雑誌 “ル・シクリスト”を創刊。ベロシオはその雑誌でのペンネームで。彼の実践的な記事は読者のみならず、フランス自転車業界にまで影響を与えた。
同時代、自転車レースに傾倒した漢がいた。ツール・ド・フランスの主宰紙編集長であるジャーナリストのアンリ・デグランジェだ。デグランジェは元レーサーで自転車競技を生涯愛し続けた。それ故に純粋に頑強な体力勝負を称賛し、革新的な工夫を軽蔑した。
ベロシオは自転車雑誌の編集長であり、随筆家でもあり、自転車ブランドを立ち上げ、(イギリスの内装変速よりも)優れた変速機構を熱心に改造し、誌上でフリーギヤを2つ車輪にはめた“レトロダイレクト”(前にこいでも後にこいでも前進する機構)を発表した。また、クランクの両側にチェーンをつけた“バイチェーン”方式など数々の可変ギヤを試した。ベロシオの功績は自転車ツーリングの提唱者であり、そして変速機の必要性を根強く説いたことだ。
ベロシオが主催したTCF(フランス自転車ツーリングクラブ)のメンバーは変速機の重要性をよく理解していた。山岳路での変速機評価は第一次大戦以降は「ポリー・ド・シャントルー」という人気イベントとして引き継がれた。サン・エティエンヌの峠“グランボア”はベロシオを慕うTCF会員の聖地として今でも崇められている。
1900年初頭までフロントギヤと後輪のスプロケットをつなぐチェーンは真っ直ぐでなければならないと信じられていた。シングルギヤと内装変速ギヤが普及していたイギリスではなおさら頑なだった。
ベロシオの“火掻き棒”
写真のテロ(Terrot)は1916年(大正5年)の発表で、世界初の外装変速機だろう。
テロはチェーンが動くのではなくスプロケット側がスライドする機構で、イギリス人の発明。ベロシオは購入(特許まで買ったとの説も)してその変速性能を試した。リヤには3枚のスプロケットがあるが、変速にはまず爪を動かしてチェーンをスプロケットから浮かすダイヤルを回す。次にT型レバーでスプロケットを左右に動かしてチェーンの真下に目的のスプロケットが位置するようにスライド。ダイヤルを緩めてチェーンを降ろす。テンションはチェンステーの下のプーリーで吸収される仕組みだ。
研究心旺盛なベロシオは友人らと指でチェーンを掛け替えた方が早いこと、そしてチェーンラインは真っ直ぐでなくても支障がないことに気付いた。そこでフレームに細いロッドを取り付けてフロント2枚、リヤ3枚のギヤで自在に変速できることを確認。チェーンが弛むのでテンションアームの必要性も再認識した。これはベロシオの“火掻き棒”(fire pockers)と呼ばれてツーリストに知れ渡った。原始的な外装式フロントディレイラーとリヤディレイラーの誕生だった。
ところがデグランジェは、変速機は「女と子どもが使うもの」と公言し、ベロシオを「小さなギヤを付けた大馬鹿者」と罵ったものだ。しかしツール・ド・フランスでは、変速機を使うレース観戦者が固定ギヤの選手たちよりも峠を早く上り、下りではフリーホイールの恩恵で年寄りのベロシオでさえ容易に追いつけた。だからレーサーたちもディレイラー=外装変速機は無視できないものと認識していたが、国際自転車競技連合(UCI)はデグランジェに同意してプロ選手には変速機の使用は拒否し続けた。フランスではツーリング用途で変速機の発明工夫がベロシオやその弟子たちにより進められた。ツールで変速機が解禁されたのは1937年、ベロシオの死後7年も経ってからだ。
できるだけシンプルな自転車で騎士道精神を追い求めるデグランジェと、自転車旅行での人類の解放と自由を理想としたベロシオは永遠の水と油だった。
変速機コラムは六城雅敦さんがCYCLE SPORTSに2017年6月号から2019年8月号まで25回連載した「変速機を愛した男たち 温故知新」をベースにしています。©️六城雅敦、リライトcoppiで、変速機を軸にした自転車発達史を描きます。どうぞお付き合いください。