
昨夜の雨、よく降ったみたいです。晴れを確信して南房総で草刈りを目論んだ。
早朝、まだ視界が悪くて時折ポツポツとフロントスクリーンに水滴。富津の低山には雲がかかっている。館山方面の空は鉛色。だが雲が湧き上がっている。
岩井海岸に着いて、6時30分にラジオ体操をした。空はまだどんより。
おや、自衛隊の艦船らしいのが館山沖でしきりに回頭を繰り返してる。
そんなこんなで時間調整したが、我が掘立て小屋の草刈りをするには時間が早い。
そこで、自転車散歩に出かけます。
我が小屋は里見八犬伝の「伏姫籠穴」に近い。以前から気になっていたが、お椀を伏せたような小山があり、山腹にガードレールが垣間見ていた。今日はそこに向かう。
目指すガードレールの道には、他人の庭に迷い込む一歩手前で引き返して到達できた。
田舎の道は難しい。そして残念なことにガーレールの先は小さな峠ですぐに降りる羽目に。
だが、謎の神社を発見。「松尾大明神」を祀っている。廟の彫刻は魚と狛犬が組み合わさっている。漁村らいじゃありませんか。
道端に咲いている草花に、なぜか赤紫系が多い。写真を撮ってみる。
道端には、同じ種類の花が咲いていることがよくある。
<植物の生命はネットワークで繋がっている>と、フランス人の植物学者が書いていた。
(『植物とは何かqu’est -ce qu’une plante?』フロランス・ビュルガ著・河出書房新社)
最も旺盛なのは柳花笠(ヤナギハナガサ)というらしい。南アメリカ原産の外来種だ。
走っていると紫陽花、ジャガイモの花と、今日はなぜか紫系の花が目に入る。
あ、ついでに枇杷の実も道路にはみ出ているんです。南房総は枇杷の名産地。走りながらひとつ、食べてみた。甘い。
前述の本に興味深い一節があった。
<近年、「植物は人間や動物のように生き、苦しみ、死ぬ」と主張する書物が刊行されているが、「ネオ・アミニズム的」な「信仰」は「自然の擬人化」ブームである。取るに足りない>と、フロランス・ビュルガは言い切る。なぜなら、植物は「感覚がある生物」ではない。
ジャン・ジャック・ルソーによると「慈悲心」は私たち一人ひとりが「感覚がある」すべての生物に抱く感情だという。それはあくまで「感覚がある生物」に対してだけなのだとなる。
道端の植物、その群れ(colony)自体が生命の塊、連鎖、“潜在的な不死”なのだそうです。
ポタリング後に、草刈りを敢行。100坪ほどの庭に、なぜか畑から外れた場所に里芋の葉が生えていた。
堀立て小屋の庭に里芋の群れが出来つつある。うれしい。