バルタリとコッピ
1940年、レニャーノチームでファウスト・コッピ(1919年〜1960年)はジーノ・バルタリ(1914年〜2000年)のアシスト役としてプロ生活を開始する。
バルタリは当初コッピをただのアシスト選手だと考えていたらしい。しかしその年のジロ・ディターリアではコッピは常にバルタリのそばを離れなかった。コッピは単なるアシストの1人から自由に動けるジューカー的立場へ地位を上げた。そして第11ステージ、ついにコッピが逃げた。バルタリはレニャーノチームのアシストを使って必死に追走するが、コッピは4分近い差をつけてステージ優勝を飾り、同時に総合でもトップに踊り出た。以後、15年近く続く両者のライバル関係が始まった。
特にコッピが戦後、レニヤーノのライバル、ビアンキに移ったことにより、両者のライバル関係は完璧なものになった。
天使と無神論者
あらゆる面で両極端なライバルというのも珍しい。山岳コースを「天使のように登る」と言われ、ボクサーのような風貌のずんぐりしたバルタリに対し、栄養失調のように痩せて手足がひょろ長く、大きく悲しげな目をしたコッピ。農民のようなバルタリに対して都会的なコッピ。しかしそのような外見の印象とは裏腹に、規則正しい生活と孤独を求め、酒もコーヒーも飲まなかったコッピに対し、バルタリは友人たちとの会話を楽しみ、ワインやコーヒーだけでなくタバコもたしなんだ。
バルタリもコッピも山岳を得意としたが、コッピはサドルの後ろに腰を引いて回転に重きをおき一定ペースで登るタイプだったのに対して、バルタリの登り方はアタックと休息の繰り返しで、スプリンターのようにサドルの前に座り、まったく対象的である。
食事のときにテーブルの上に聖人の像を置いていたバルタリは、敬虔なカトリック教徒として有名だった。コッピはレース前に胸の前で十字を切ることはなかった。彼は唯物論的=無神論的な雰囲気を漂わせていた。それがコッピのファンを熱狂させるとともに、バルタリのファンを激高させた。
この時代のイタリアはコッピかバルタリかでファンが二分された。バルタリが古い伝統を体現するとすれば、コッピは新時代の象徴になった。南の敬虔で貧しい地域ではバルタリが指示され、北の工業化された近代的な地域ではコッピのファンが多かった。
安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)をベースに伝説的ロードレースの逸話を紹介。