「サイクル日本」
創刊1951~1953年(詳細不明)
発行:財団法人自転車振興会連合会
定価:60円(1951年9月号)
戦前のサイクルレースの実話や、戦後にギャンブルとして始まった競輪にまつわる風俗、機材の研究、多彩な読み物が掲載された月刊雑誌、「サイクル日本」は自転車振興会の支部で60円で頒布されていました。本屋に並んでいたのではないようです。
競輪は昭和23(1948)年に産声をあげました。
ギャンブル収益の一定額を焼け跡から立ち上がるためにインフラ整備をしたい自治体の財源として利用でき、さらに一定額を日本の工業発展に寄与する交付金財源として運用するのが約束事。社会貢献を錦の御旗に誕生。倉重武さんがキーパーソンでGHQへの根回しなどを経て政治を動かし、自転車競技法は8月1日付官報にて公布されたのです。
混乱した時代の渦の中で「サイクル日本」は、競輪選手たちへのスポーツ人としての啓蒙を軸に、興味深い読み物を掲載。やや同人誌めいた内輪話も。72ページの誌面構成(1951年9月号)は巻頭にモノグラビア4ページのルポルタージュ、中央に4ページのグラビア、他はザラ紙の印刷。
中グラビアはハードウエアの紹介記事
9月号は表紙から女競輪。巻頭グラビアガールは18歳の矢島壱々子選手で、前年のミス競輪選出で優勝して12回の勝利を重ねた。所属する千葉競輪場へ行徳の自宅から往復16里を朝夕走る。
特集には、「競輪・野球女流選手おしゃべり対抗」が6ページ。プロ野球に女子選手リーグがあったそうだ。野球からエーワン・ドラゴンズ所属の金子悦子、原田和子選手が、女競輪からは渋谷小夜子、女鹿佳子選手が登場。選手になった動機、ファンレター、着用するウエア、マッサージや練習、遠征での楽しみ、恋愛観などを語るが、驚きは渋谷小夜子選手の「私は父が病気のために女学校にいられなくなり、親戚や母の勧めで自転車に乗れなかったのに」という発言。よっぽどスポーツの素養があったのだろうか。
イラスト紀行エッセイ「小野佐世男・女子レースに行く」は当時の競輪事情を描いて秀逸。これは別立てで紹介します。
戦後パージされて沈黙を強いられた評論家・浅野晃さんの随筆「金のカケといのちガケ」は、金銭を賭けるのがギャンブルで戦争も賭博、それを共産世界と民主世界に見立てて、勝負を決めるならスポーツで対抗すればいい、私は迷わず民主側に賭けるとまとめている。
表紙がイラストで描かれていた「サイクル日本」、目黒の自転車文化センターにバックナンバーが数冊あるのでお読みになれます。