レース好きな人は昨年、大手新聞に出た死亡記事を読んだかもしれないがフェリーチェ・ジモンディは2019年8月16日、シチリア州メッシーナ県のジャルディーニ=ナクソスにて海水浴中に心臓発作を起こして死去した。76歳没。1964年の東京オリンピックでは39位。バルタリと並ぶ長寿選手といえる。
1965年のツール・ド・フランス総合優勝はジモンディ。98年にマルコ・パンターニがパリでマイヨ・ジョーヌを着たとき、端正な顔立ちの初老の紳士が一緒に表彰台に上がった。彼こそ、そのときまでツールに優勝した最後のイタリア人、ジモンディだった。
1942年にイタリア北部の山岳地帯ベルガモの近郊で生まれた。ジモンディ家は当時のイタリア家庭によく見られたように、コッピ派の父とバルタリ派の母に分かれていたという。多くの自転車選手の父親と違って、最初から彼の父親は積極的に自転車レースに取り組ませた。しかし当初、息子の成績は散々だったらしい。後年のインタビューでジモンディは、自分のことを将来の世界チャンピオン、ツールの覇者だと想像する者は誰もいなかったと述べている。
サルヴァラー二のチーム員になったジモンディは春のフレーシュ・ワロンヌで2位、ジロでは総合3位に入っていたが、まだ無名の新人に過ぎなかった。そもそもツールのメンバーに選ばれたのだって、病気になった選手の代役として3週間前に決まったことだった。
だが、彼は早くも第3ステージで優勝、マイヨ・ジョーヌを着る。平地のステージが続く前半でそれを手放すが、それでも第5ステージ、27kmの個人TTではフランスのエースであるレイモン・プリドールに次いで2位になる。
終盤のTT、ルヴァール山を登る27kmの山岳コースで勝ったのはジモンディだった。2位のプリドールより23秒早くゴールしたのである。ボーナスタイムもあって両者の差は1分12秒。ここでこの年のツールは大勢が決したと言ってよいだろう。そのまま最終ステージのヴェルサイユからパリへの個人TTに突入した。ここでもジモンディは2位のジャンニ・モッタに30秒、3位のプリドールに1分08秒の差をつけて優勝、このツールで最も強い選手であることを証明したのである。
プロ入りの年にツールに初出場して、コッピとバルタリの後を継ぐイタリア人が生まれた。この後、ジロに3回、ブエルタにも1回優勝する。クラシックでも勝利を重ね、一見華奢で、山岳に強いタイプとしては信じられないことだが、66年のパリ〜ルーベにも端正な顔を泥だらけにして独走で優勝している。
1969年からはことごとくメルクスの後塵を拝することになる。ジモンディの名前はメルクスと対で呼ばれるが、ラスト2周で1対1の対決となり敗北した71年の世界選手権に代表されるように、彼に対しては分が悪い。なにしろ年間50勝するような怪物選手と争わねばならなかったのである。その意味では、意地悪な言い方かもしれないが、メルクスが出てくる前にツールに勝っておいて良かったというのが彼の本音ではないだろうか。
この記事は安家達也著「ツール100話」(未知谷)より引用し、coppiがまとめました。