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オディーレ・ドゥフライエ 1888年〜1965年

1912年、ツールは10回目にして初めてベルギー人チャンピオンが誕生した。5000km以上の総距離を29日間、15ステージで競われた。この年からギヤが固定式からフリーが主流になった。

ドゥフライエは自転車メーカーのアルシヨン・チーム(プジョーに次ぐフランスの強豪)に所属していたので西フランドル地方に拡販政策をとっていたスポンサーの意向でベルギー選手のドゥフライエにお呼びがかかった。エースは前年優勝のフランス人のギュスターヴ・ガリグーで、第2ステージでドゥフライエがガリグーを打ち負かしてもそれは変わらなかった。

第6ステージの山岳で総合トップにいたガリグーがパンクしたときにドゥフライエは健気にチームのエースを待ち、追いついてきたガリグーを引っ張って先頭を逃げる山岳王ラピーズを追い始めた。しかしここでアシストの方が強いことが明らかになった。スピードに付いていけないガリグーは「先に行け」の合図を出す。同時にドゥフライエはスピードを上げてこのステージ2位になる。エースは40分遅れだった。

すでにチームの枠を越えて、国家間の戦いがツールで始まっていた。アラヴィ峠の下りでドゥフライエは犬に衝突して転倒、リタイヤを考えているところにライバルチーム、プジョーのベルギー人で後に自身も総合優勝を果たすフィルマン・ランボが献身的に彼をアシストし始めた。ドゥフライエのそばを離れず、絶えず声をかけて次のガリビエ峠の頂上まで引っ張って行ったのである。

このベルギー同盟軍に対する抗議の意味で、次のステージで総合2位のオクターヴ・ラピーズと彼のチーム「ラ・フランセーズ」はスタートしなかった。

結局ドゥフライエはステージ3勝、過酷なピレネーの第9ステージでライバルを圧倒し、パリでは総合2位のクリストフに約60ポイントの大差をつけて総合優勝。彼は自分の勝利をすべてのベルギー国民に捧げ、故郷のブリュッセルでは1万人の興奮した人々が彼の凱旋を待っていた。

しかし、ロトの紙面で、ツールの記事は例年に比べて小さなスペースしか与えられなかった。

 

記事は安家達也著「ツール100話」(未知谷)より主要部分を引用し、coppiがリライトしてまとめ直しました。

 

Post Author: coppi