
飛行機乗りに支持された時計、Breitlingをご存知ですか?
ブライトニングは創立140周年を迎えたスイスの時計ブランドで、ジロ・ディタリアの公式計時を1949年〜52年、ツール・ド・フランスも1950年〜52年まで担当。販促のために多くのスポーツイベントにコミット。実は3月25日に、独自開発ムーブメント搭載のTOP TIME B31が発売され、噂ではイタリアのレーシングカーにちなんだ腕時計、自転車競技黄金期の2人のチャンピオンの名前を冠した腕時計も販売予定とか。
ローンチのために、ジーノ・バルタリと、ファウスト・コッピの物語を凝縮してお話する機会をいただいた。イタリアでは今もこの2人は有名人。
グランツールのひとつ、ジロ・ディタリア。その第1回はステージの距離が400kmもあり、早朝スタートで夜まで走り、個人参加の大冒険だった。メカニックもサポートも皆無、127名の選手のうち完走は49名。優勝者ルイジ・ガンナ選手は左官職人で、毎日ミラノまでの100kmを自転車通勤していた。他にも、普段は土木作業員、工場労働者、パン職人でみんな貧乏だった。
1910年代には自転車を作るメーカーがチームを持つ。初期のヒーローは、1920年〜30年がコンスタンテ・ジラルデンゴ、アルフレッド・ビンダ、レアルコ・グエッラ、そして永遠のライバルと言われた2人、ジーノ・バルタリと彼の王座を奪ったファウスト・コッピだ。
1930年代。ジーノ・バルタリ(1914〜2000年)は21歳でレニヤーノ・チームのプロ選手としてジロ・ディタリアに初出場、1936年と1937年にジロ・ディターリアを二連覇し、推しも推されぬ国民的なヒーロー。
ファウスト・コッピ(1919〜1960年)は、18歳のとき脈と首の筋肉と腰の形を触るだけで選手の資質を見抜けると言われた盲目のマッサージ師ピアジオ・カヴァンナと出会い、カヴァンナの指導で1年後にアマチュアで最高位のレースで初勝利。2年後の1938年は6勝を挙げその全てぶっちぎりの独走勝利。1939年シーズンにコッピはプロ登録して「ジロ・デ・ピエモンテ」に参加し、すでに国民的英雄でレニャーノ・チームのエース選手であったバルタリと逃げに成功。バルタリが勝ち、コッピは3位だった。その夜にレニャーノ・チームのパヴェージ監督は、バルタリのアシスト選手としてコッピとチーム契約。
レニャーノのエース選手、バルタリが器用に変速機を操る
1940年、ドラマの始まりだ。詳しく書くと長いので端折ると、このジロ第2ステージでバルタリは犬と接触して転倒、中盤の第10ステージを終えたところでバルタリは先頭から9分遅れだった。一方で、バルタリの新人アシストとしてレニヤーノ・チームに雇われた20歳のコッピはただ1人、先頭グループでゴールしていた。
第11ステージでもバルタリの自転車にトラブルが発生。アシストたちはエースを必死になり復帰させようとした。しかしコッピはバルタリよりずっと先にいる。レニヤーノのパヴェージ監督はコッピに、「アタックして構わない」と告げた。先行するコッピは峠をライバルたちと越えてから、まだゴールまで100kmも残っているのに再加速して独走態勢で逃げ始めた。レース序盤からの独走。これぞコッピの真骨頂。
バルタリにパヴェージ監督は「追うな、ライバルたちを連れていく気か、馬鹿なことをするな!」と叫んだ。バルタリはそれに従って自身の三度目のジロ総合優勝を諦めた。コッピは見事に雨の中を独走で逃げ続け、後続に3分45秒の差をつけてゴールするとともにマリアローザも手にしてジロ総合優勝に輝いた。
後日バルタリは繰り返し、「最初から自分がいればコッピを捕まえることができたろう」と語った。20歳の新星コッピは、衝撃的なプロ選手デビューを飾った。
これが以後、15年続くライバル確執の始まりだった。
ブライトニングのアンバサダーだったコッピの腕には時計
第二次大戦ではコッピは徴兵されて戦ったが、捕虜として1943年に抑留されて1945年に解放された。11月に一度目の結婚をして年内にビアンキ社と契約してプロ選手復帰を遂げる。バルタリはナチス占領下にアパートを借りてユダヤ人をかくまって、逃すために練習を装って偽造パスポートを運ぶなどの活動をしたのは有名なエピソード。
戦後の1946年、27歳のコッピは戦争で2年間中断されて再開された「ミラノ〜サンレモ」でスタート直後に4人と逃げた。中間にある292km地点のトゥルキーノ峠でかろうじて付いてきたフランス人選手を振り切って、後はゴールまでの147kmを独走で逃げて後続に14分差という大会史上初の大差で優勝。
バルタリは「ミラノ〜サンレモ」を1939年と1940年に連覇、1947年と1950年に勝ったし、「ジロ・ディ・ロンバルディア」は1936年、1939年、1940年に勝っている。 一方のコッピは、「ジロ・ディ・ロンバルディア」を1946年〜1949年まで4連覇した。
ともあれ、戦後再開された「ミラノ〜サンレモ」でぶっちぎり勝利を見せつけたコッピもまた、敗戦という重い空気に包まれていたイタリアに明るい希望をもたらした。1946年のジロではバルタリと激しく闘い、コッピは47秒差で2位に甘んじたが、見事にバルタリとコッピは国民的ヒーローに返り咲いた。
家族とバルタリ 愛人とコッピ
イタリアではコッピ派、バルタリ派に国民は分かれた、と言われる。食事のときに食卓に聖人像を置いていたバルタリは、保守的で信心深い田舎の人たちに愛された。合理主義社のコッピは、工業化された都会の進歩的な人たちのアイドルだった。ふたりの物語を綴った何冊もの本がある。映画や歌もある。
画像©️:Rai3 HD「LA BICICLETTA NELLA STORIA」
21世紀も四半世紀が経過し、現在のロードレースは飛び抜けて速くて強い選手がいる。科学的アプローチで選手は強化され、機材は進化し、戦術にはAIが用いられても不思議じゃない。
しかし、黄金期のロードレースにはライバルの闘いがあり、エースを支えるアシストがいて、不文律の文化があった。パンクで止まればプロトンはスピードを緩め、生まれ故郷を通過する選手がいればプロトンは先頭を走らせてやる。誕生日なら勝利を譲ってやる。2003年に発表された日本アニメ「茄子アンダルシアの夏」が、そういう心持ちを描いていました。
ある研究者によると、イタリアでは1956年にすでにロードレースの人気に翳りがさしていた。この年に高速道路建設が始まっている。自動車の普及が大衆の生活に影響を与えて通勤が自転車から自動車になる。ジロ・ディタリアのラジオ中継が1960年代のテレビ放映開始で、伝え方がビジュアルになる一方で、サッカー人気が高まる。
もちろん、70年代以降もメルクス、インデュライン、ウルリッヒ、パンターニなど素晴らしいタレントが自転車レースの醍醐味を魅せてくれたけれど、やっぱり黄金期のレースはジーノ・バルタリと、ファウスト・コッピの時代でしょ。
あなたのヒーローは誰? 僕はファウスト・コッピとマルコ・パンターニです。