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富津岬のほとんどは松林。

1953年に昭和天皇が行幸され、三本の黒松をお手植えになった。

それが契機になり、富津岬から南側は緑が豊富なのだと思う。

岬の先端にある明治百年記念塔からの眺め。左は東京湾側

東京湾を南北に分断するような形で突出した半島状の砂州が富津岬。その先端あたりが富津公園だ。1951年に千葉県内初の広域公園として開設。歴史的には、富津岬に松平定信が江戸防衛のために砲台設置のために海堡を築き、明治以降は陸軍の首都防衛上の要塞地帯だった。だから一般人は立ち入れなかった。

いま、公園の紹介パンフレット(制作2018年)は戦争遺構をアピールしている。

タイトルは、 “東京湾要塞・富津岬”で、要塞復元イラストマップだ。

 

軍用鉄道が現在のJR青堀駅から富津岬まで5km区間に施設され、大正13年にフランスに発注して昭和4年に横浜港に届けられた“列車砲”が富津岬に配備された。昭和20年の敗戦で軍用鉄道は廃止、敷地は元の地主に返還されたが、要塞の砲台やトーチカ跡は現存する。

パンフレットには 嘉永(かえい)6(1853)年に黒船のペリー来航で外国船の脅威に対応するために砲台が造られた人工島、第一海堡、第二海堡、そして今はない第三海堡も描かれている。

復元想像図・富津公園ヘリテージ・“富津射場”には要塞の要であった中の島イラストがある。前回ブログでcoppiは 中の島展望塔でラジオ体操をしたエピソードを書いたが、塔からの眺望は素晴らしい。中の島へのアクセスは2つの橋による。北側の小さな石橋(名称不明)がメインルートだが、西側にコンクリート橋がある。そして以前は南側に木造の橋があった。

 

special thanks 絵葉書画像提供:キャンプ場・森田氏

昭和30年代の絵葉書「県立公園・富津」の記載で、西側の橋は「天の橋」、南側の橋は「御幸(みゆき)橋」と呼ばれていたと確認。

 

御幸橋がかつてあった斜面には風化した階段だけ残っている

「御幸橋」は、キャンプ場管理人に取材し、「橋の欄干にひらがなで書いてあった」との証言を得た。だが、西側の橋は読み不明。千葉県立中央図書館で過去史料をあたったが無駄だった。だが、貝殻細工の店で取材したところ、「50年も前に子ども時代、メガネ橋と呼んでいたね。透明な汽水で底はきれいな砂で、橋から飛び込んで泳ぎを覚えた」と店主の証言。

「天の橋」と記されている現存するコンクリート橋

公園を管理する人から、「私の祖父がメインの橋を作った職人で、西側の橋は作り直した新しい橋と聞いています。天の橋の天をアマ、テン、どう読むかは分かりません」とも聞けた。

上の橋が中の島に入るメインルート

御幸橋は、各種の歴代地図を調べたところ、1975年のゼンリン住宅地図には記載がある。だが1981年の同地図には記載が消えていた。

 

左は戦前の航空写真、右がゼンリンの1975年住宅地図で南に御幸橋の記載がある

富津公園が開設されたのは1951年、1953年に昭和天皇が富津公園に行幸されて植樹祭で黒松(黒松は日本の固有種で、 Japanese black pineが英語名)をお手植えされた。推察するところ、御幸橋は1951年から53年の期間に天皇皇后両陛下のために作られ、御幸橋と命名されたのではないだろうか。

お手植えの松と歌碑

昭和25(1950)年ごろの写真がある。富津洲の外湾を中心にして松の苗木が飛砂防止の目的で植林されている。そこを生徒たちがサイクリングをしている。当時の富津岬は一面の砂地だった。

画像引用©️『ふるさとの思い出294 写真集富津』(国書刊行会)

軍から返還された土地について、1976年に刊行された社団法人・千葉県治山治水協会による『海岸砂防林のあゆみ』に関連記述があったのでポイントを記す。

富津海岸の砂原は房総半島の西岸には珍しく広く、明治末年から終戦まで、旧陸軍の要塞地帯で、軍用地として一般人の立ち入りが禁止された。だから人為の加わることなく、特に南方地域一帯は広大な白砂地帯であった。

戦後解放されたが、何ら砂防施設もなく、後方の農地、住宅には飛砂や潮風による害は極めて甚大だった。昭和22(1947)年に千葉県は砂防林造成計画をつくり、次年から継続的に砂防林を整備した。富津岬の北側は内湾性海岸だが、南側の海岸は九十九里浜に類似した外洋性だ。岬から南には人口砂丘を造成し、そこに黒松を主にして、アカシヤなどを植栽・根固めして肥料を与えた。造成された林帯は砂兼潮害防備保安林と位置付けられ、規制を設けながら治山撫育事業整備に努めた。

手付かずの自然が残っていた富津岬。やはり1953年に行われた植樹祭があったからこそ、緑豊富な現在に繋がっていると思う。『広報ふっつ』には、<富津市民として、この時期に忘れてはならないことは、昭和28年四月四日、第四回全国植樹祭、第三回国土緑化大会が、天皇皇后両陛下のご臨席のもと富津公園で行われたことでした。終戦までは、ここは要塞地帯で、荒涼とした砂浜だったと言いますが、この植樹祭への行幸が、現在の景観をつくる礎になったのでした>とある。

昭和天皇のお手植えされた木は、国民にとって特別な意味を持ち、森林に対する愛情を深める象徴となった。お手植えの黒松は2025年現在、3本とも残っているが立ち枯れしているようだ。「お手植え記念碑」があり、記念碑石板に、<うつくしもりを たもちてわさわひの たみにおよふを さけよとそ思ふ>と刻まれている。その心は、<美しい森を保って、災いが民に及ぶことを、避けてほしいと思う>だろう。

富津公園、いつまでも在ってほしい。

Post Author: coppi