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変速機から脱線します。

第一次大戦から第二次大戦までの期間、島野鉄工所と前田鉄工場の黎明期には両社ともフリーホイールを生産して海外輸出し、後の変速機生産へと力を蓄えた。「変速機を愛した男たち第7話」の要約を紹介。

シマノ創業者の島野庄三郎は堺の自転車工業の草分けである高木鉄工所で修行をスタートし、日の本鉄工所、万代鉄工所、大勝鉄工場という名うての工場を渡り歩いた。明治〜大正期の職人とは、弟子を率いて腕一本で渡り歩く出来高歩合制であり、高給取りの代名詞だった。だから第一次大戦後の不況で操業停止となれば職人たちはたちまち困窮した。

島野庄三郎

「遊んでいるよりはまし」 庄三郎はそう考えて大正10年に職人仲間と島野鉄工所を立ち上げた。だが作ったフリーホイールは欧米からの輸入品と比べると表面に凹凸があり酸化スケールがこびりついていた。そのため恐ろしく職人の手間をかけて切削や紙やすり作業で見栄えを追求。その手間で製品に刻まれたトレードマーク「3.3.3.」は高品質の証として認知された。昭和5年で月産6万個、販売は国内以外に占領地域である中国東北部(旧満州)、上海、朝鮮半島、フィリピン、タイ、シンガポールにも輸出された。

しかし第二次大戦の終戦2カ月前、1945年6月の空襲で工場全壊。再建はしたものの昭和25年の朝鮮特需の恩恵もなく、経営は綱渡りだった。それでも庄三郎は鍛造と熱処理の新技術に投資を惜しまず、大学出の人材を求めた。また設計部隊を率いる島野末雄(庄三郎の末弟)には、多段フリーと組み合わせる外装変速機と内装ハブの完成を急がせた。

前田鉄工所の創業者である前田鹿之助は、日の本鉄工場の親方だった。大正11年(1922年)に前田鉄工所を立ち上げてフリーホイール製造を始める。鹿之助もまた、第一次大戦後の不況で仕事にあぶれた職人らを引き連れた。

前田鹿之助

戦禍で一時的に日本の輸出が急増したが、欧州が復活するにつれて粗悪な日本製が海外で売れなくなるのは自明の理。そんな逆風下でも腕の良い鹿之助が作る「8.8.8.」は品質がいいために売れ行きはよかった。第二次大戦の戦時体制で、堺の自転車部品企業は前田を中核として東亜精機工作所という名称で統合された。だが前田もまた終戦の1カ月前、7月の空襲で工場消失。

だが前田鉄工所には秘策があった。昭和15年に鹿之助が没して経営を引きついたインテリの娘婿である前田大蔵が、空襲の9日前に職人たちの大反対を押し切って資材を疎開させていたのだ。工場は消失したが焼け残った旋盤だけでフリーホイールは生産できた。瓦礫で炉を作り、コークスと団扇での焼き入れは職人の勘だけが頼り。その仕事に全国から注文殺到、他社製品は配給の鉄くずだが、前田には高品質の資材が残っていたからである。

とはいえ、島野も前田も終戦から昭和30年までの10年間はシングルフリーホイールの生産を安定させるだけで精一杯だった。

ちなみに商標デザインだが、島野鉄工所と前田鉄工所の黎明期、大英帝国の機器にはブロードアローという「↑」に似たマークが刻まれていた。官需製という名誉の記号だった。また、英国を代表するBSAは銃砲メーカーであったため三梃のライフルがロゴに使われていた。そのために大正時代は束ねたデザインが流行した。そういた背景があって島野は三本槍、前田は三梃銃の商標ロゴとなった。

島野は、島野の頭文字であるSを並べたかったがすでに他社が使用していたのでBSAのロゴに似せてSSSにしたという説がある。

前田の社史には「島野が3だから三八式歩兵銃の8にした」とある。しかし「嘘のサンパチ」とからかわれるので、後に社長となる河合淳三郎は取引先には縁起の良い「末広がり」だと説明していたそうだ。

Special Thanks●六城雅敦

Post Author: coppi