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川室 競 1892年〜1973年

1926年と27年に個人参加した日本人が、Kawamuro Kissoだ。
ツール・ド・フランスは1938年までグルーぺと呼ばれるスポンサーを持つ選手たちと、イゾレ(単独)であるスポンサーのない個人参加選手がいた。川室は後者だ。

Wikipediaで検索すると川室の出自があるが、川崎造船所の社員として蒸気船をフランス・マルセイユに届けてそのままフランスに留まって1918年に国際自転車競技連合にプロ登録して、26年と27人にツールに参加するがともに第1ステージで棄権。その後はイタリアやドイツでドミフォン選手として活動した。

当時のツールは個人参加の選手はすべて自己責任で走り、毎日のホテル予約も、食事の手配もやりながら走った。自転車が壊れると自分で修理する決まりだから肩にタイヤをタスキ掛けした。変速機も1937年まで禁止だった。

それはツールの主催する新聞ロト紙の編集長であり初代ディレクターであったアンリ・デグランジェの信念による。デグランジェは元選手で1893年には世界初のアワーレコード(1時間にどれだけ距離を走れるかの記録)で35.325kmを打ち立てた筋金入り。故にツール開催を告げる新聞には<怠惰な人々を驚愕せしめ、自らの安穏なる日々を恥じいらせ、彼らが選手達の無尽蔵に迸り出るエネルギーによって目覚めさせられんことを!>と読者に向けて檄文を書いたほどだ。

デグランジェのために、初期ツールはハードな大冒険だった。

このコラムは安家達也著「ツール100話」(未知谷)より主要部分を引用し、coppiがリライトしてまとめ直しました。

Post Author: coppi