レイモン・プリドール(1936〜2019) ツール・ド・フランスに14回出場、そのうち12回完走し、総合2位3回、総合3位5回の好成績を収めたが一度も優勝できなかったことから「永遠の二番手」と呼ばれた。
コッピとバルタリがイタリアの自転車ファンを二分したように、アンクティルとプリドールもフランスの自転車ファンを二分し、レースでの声援は圧倒的に“プープー”ことプリドールに向けられた。
TTでリードを奪い、後は無理をしないアンクティルのスタイルに、ドラマチックなレース展開を期待する人々は飽き飽きしていたからである。だが、1964年のピュイ・ド・ドームに向かう第20ステージの一騎打ちはそうした人々をも大満足させた。
7月13日のこのステージで勝ったのはスペインのフリオ・ヒメネス。2位のバーモンテスと11秒差で逃げ切ったが、本当のレースはそれより後方で展開していた。このツール最後の日は30km弱の個人TTである。そこまで持ち込まれるとアンクティルに勝てるものは誰もいない。だからこの時点で56秒遅れのプリドールとしては最後の上りがあるこのステージでアンクティルを引き離しておきたかった。が、プリドールはアンクティルの策略に見事に引っかかった。
ピュイ・ド・ドームの上りも三分の二に差しかかったとき、バーモンテスが逃げるヒメネスを追ってアタック。プリドールもアンクティルの息遣いからチャンスと察してバーモンテスの後ろに付こうとしたその一瞬、スピードをあげて隣に出てきたアンクティルの「くそ、スペイン人にボーナスタイムを獲られちまうぜ」というつぶやきが聞こえた。アンクティルの最後の力を振り絞ったブラフ。もう千切れる寸前だった。
プリドールはそれを見破れず、アンクティルはまだボーナスタイムを考える余裕があるのだと思い、追うのをやめてスピードを落としてしまった。両者は隣り合い、何度も文字どおり肘と肘をぶつけあいながら登っていった。しかしラスト800mでプリドールはダッシュし、一気にアンクティルを引き離した。この800mで42秒の差がついた。だがまだ14秒差でアンクティルがマイヨ・ジョーヌを守っていた。
最後の個人TTは革命記念日の7月14日、もちろん勝ったのはアンクティルである。彼は観客のヤジのなか、プリドールに21秒勝り、ボーナスタイムも20秒獲得、コッピに次いでダブル・ツールの偉業を達成したのである。永遠の二番手と言われたプリドールがツールで勝つことができたとしたらこの年だった。確かに彼は翌65年にも、74年にも2位になっているが、優勝者とのタイム差がこれほど僅かだったことはない。振り返ってみると第9ステージも悔いの残るものだった。
ゴールはモナコの自転車競技場で、20人ほどの集団スプリントとなった。ここでプリドールは競技場に入ってからの周回数を間違え、まだ1周残っているのに両手を高々と挙げてしまった。もう1周して本当に手を挙げたのはアンクティルで区間賞のボーナスタイム1分も得た。最終的なタイム差は55秒。結果論に過ぎないが、もしもプリドールがこのステージで区間賞を取っていれば総合優勝だったのだ。
プリドールとアンクティル、このライバルは互いを強く意識しあっていた。アンクティルは1987年11月18日に癌でこの世を去っている。その前日に見舞ったプリドールに彼はこう言ったという。「レイモン、悪いな、また君は僕より後だ」
この記事は安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)より引用し、coppiがまとめました。