毎日新聞社と日本自転車連盟は昭和22年(1947)に長距離ロードレース「ツーリスト・トロフィー」を大阪〜東京、翌年は逆に東京〜大阪へと3日間・距離500kmで開催した。
第二次大戦後しばらくは市街地レースがいくつも行われ、野球とともに自転車レースも人気があった。ちなみに競輪(1948年〜)が行われるようになると自転車競争=ギャンブルという見方がうまれ、経済成長による道路封鎖の難しさもあり少なくなっていった。
リザルトが分かるツーリスト・トロフィー第2回大会は15チームが参加して優勝は大日本機械大阪(22時間7分21秒)、2位が中西金属工業、3位が大日本機械東京だが、ほかにも三菱重工業、萱場産業などが戦後のGHQによる平和産業転換政策により自転車を製造してピーアールのために参加していた。
萱場といえば今はクルマのショックアブソーバーや建設機器の大手だが、独自に変速機も作っていた。上に載せたのは昭和24(1949)年6月18日付け日本輪業通信の記事で<変速装置としては戦後はじめて出来た優れものいわれる>と書いた。下の人物写真はツーリスト・トロフィーを走った萱場の選手。手ぬぐいハチマキが男らしい!
日本のディレーラーは、シクロ、トリプレックス、サンプレックス、ユーレーなどを参考にまずコピーを作り、改良を重ねた。
参考:大日本機械(現ハスクバーナー・ゼノア)、萱場工業(現KYB)
Special Thanks●六城雅敦