ルイゾン・ボベ(1925年〜1983年)
1954年のツール・ド・フランスはオランダのアムステルダムがスタート地点。参加チームは6つのナショナルチーム、5つのフランス地域チームで、110名の選手がスタートラインに並んだ。
ルイゾン・ボベは第2ステージで区間優勝を飾り、第4ステージ終了後にマイヨ・ジョーヌを手に入れる。しかし、おかげでスイス人のF.キューブラーを徹底的にマークしなければならなくなったフランスチームのアシストたちは「あの白十字(スイスのナショナルチームのマーク)をまだ追いかけなければならないなら、俺たちはみんな赤十字(救急車のマーク)行きだ」と嘆いた。
ボベは18歳で本格的に自転車競技を始めたがすぐにフランス期待のアマチュア選手になり、世界チャンピオン1回、2位2回、ツールに3連勝し、フランスチャンピオンのタイトル3回、クラシックレースも5勝している。弱点のないオールラウンダーで、1950年には山岳賞を獲得。
現在では個人が獲得した賞金もチームで分けるというのが、プロロードレース界の暗黙のルールとなっているが、このシステムを最初に導入したのはボベだったらしい。監督に呼ばれたボベともう1人の選手が、監督から優勝の可能性を問われた。1人の選手は「優勝は分からないがトップ5に入る自信がある」と言ったのに対して、ボベは「もしチームの他のメンバーが私のために援護してくれれば必ず優勝する」と言い、さらに「私が勝ったら賞金はすべてチームメイトに分配するつもりだ」と付け加えた。
“ペジェの協約”と呼ばれるこの逸話の後、このシステムが始まったと言われている。
安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)をベースに伝説的ロードレースの逸話を紹介。