モーリス・ガラン 1871年〜1957年
1903年のツール・ド・フランス最初の優勝者は、イタリア生まれで32歳のフランス人、身長163cm体重61km、もとの職業から“小さな煙突掃除人”の渾名で呼ばれた。チェーンスモーカーで、荷物の中には赤ワインのボトルを欠かさなかったという。
毎ステージ400kmもの距離を走る6ステージで5ステージは夜中のスタート。レースは主に水曜から木曜と土曜から日曜にかけて行われた。1ステージだけの参加もありで、リタイヤしても次ステージに出走できるルール。合計83人の出走者で参加国はフランス以外にベルギー、スイス、ドイツ、イタリア。個人的にスポンサーがいる者は21人いたが現在のようなチームプレイはなかった。
怪しげな事件、不正行為が目撃された。夜陰に乗じて近道をしたり、列車移動の申し立てなどがあったそうだ。翌1904年もガランが総合優勝したもののゴール4ヶ月後にその記録をフランス自転車競技連盟が覆して総合4位までを全員失格に決定。ガランは決定を不服として2年間の出場停止処分が明けた後もツールには出場しようとしなかった。
誰かがライバルの食べ物に睡眠導入薬を入れたり、フレームに鋸で切れ込みが入れたり、道路上に釘が撒かれていたり、おかしな事件が頻発したのだからたまらない。贔屓選手を援護するフリーガンもどきの集団が選手を襲い、審判がピストルで威嚇して追い払うということも一度ではなかった。
結局、ガランを失格にした根拠を連盟は明らかにせず、33歳の彼は選手生命を絶たれたのも同然になった。1911年に一度だけパリ〜ブレスト〜パリに参加し10位に入って健脚ぶりを示した。40歳だった。
記事は安家達也著「ツール100話」(未知谷)より引用し、coppiがまとめました。