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実は違うんです。1902年11月のある日、ジェオ・ルフェーブル(上写真)がスポーツ新聞『ロト・ヴェロ』(以下、ロト)編集長のアンリ・デグランジェに、ライバル紙『ル・ヴェロ』に勝つための策、フランス一周レースを進言。ツール・ド・フランスを最初に言い出したのはルフェーブルだった。

「一日に一定距離のレースを行い、翌朝には新たに次のレースをスタートするのです。(ライバル紙が主催する)ボルドー〜パリは一日で終わりですが、何週間もかけてフランス中を巡るようにすれば私たちの新聞はそれを記事にできるのです」

デグランジェは元選手だったのでルフェーブルの進言を聞いた時は、「選手だって寝なくちゃならんのだよ」と返答したものの、それを受け入れた。

かくして1903年1月『ロト』紙に2,428kmの自転車レースの広告が掲載された。賞金総額は2万フラン。総合50位以内の選手には毎日5フランが支給される。しかし参加希望者はすぐに集まらなかった。距離の長さもそうだが、参加料10フランとレース中の宿泊費などの経済的不安も影響していた。当時のレースでは諸経費選手持ちが通例だったのだ。

当時の貨幣価値を想像する手かがりとして、例えば切手が5サンチーム(100サンチームで1フラン)、ロト紙の年間講読料が20フラン。だから参加料10フランは結構な額だった。

そこでデグランジェ編集長は新たな広告を出した。レース期間中の選手は家にいるのと同じにお金はかからないことを保証する。ホテルは選手諸君に泊まってもらえるのが名誉であり宣伝にもなることから特別料金を申し出てくれている。何より10フランの参加料で2万フランを稼げるかもしれない!

この広告によって申込者が一気に増え、第1回のツール・ド・フランスは83人の選手によってスタートすることになった。

 

ジェオ・ルフェーブル(1887〜1961年)は、ロト紙の自転車競技部門のチーフ。常に現場で働き、山岳路を開拓し、ツールを面白くするためのアイデアを出した

記事は安家達也著「ツール100話」(未知谷)より主要部分を引用し、coppiがリライトしてまとめ直しました。

Post Author: coppi