ルイス・オカーニャ(1945〜1994年)は、メルクスを脅かす存在だった。1971年のツール・ド・フランスはチームTTで始まり、勝ったのはメルクスのモルテーニ・チームである。順調にメルクスがマイヨ・ジョーヌを着続け、第10ステージのサン=テティエンヌからグルノーブルへ向かうステージでツール出場二度目の若きヨープ・ズーテメルクが初めて総合トップに立つ。とはいえ、メルクスの遅れはまだ1分にすぎない。
だが、翌日のグルノーブル、オルシェエール=メレット間134kmのステージ、ゴール手前57kmの地点で満を持してルイス・オカーニャが単独アタックを仕掛けた。これを追うことができる者は誰もいなかった。 山岳アシストもないままメルクスは9分近い差をつかられてしまう。この時のオカーニャの強さは並大抵のものでなく、実に71人の選手がタイムオーバーになった(審判は急遽、タイムオーバーの基準をトップから12%の遅れから15%に変更し、その結果タイムオーバー失格者は3人にとどめた)。
そろそろ“人喰い”の勝利に飽きていた観客たちは大喜びである。当時のツールは途中まではのんびりペースで経過するのが普通だったが、翌日のマルセイユに向かうステージでメルクスはアシストたちにハイスピードで集団を引くように指示する。そのためゴールは予定より1時間以上早まった。新聞のゴール予想時間を当てにして集まった観客が目にしたのはゴールを片付ける係員の姿だった。メルクスはこの日、2分とはいえ取り戻すことができ、同時にまだ彼が勝負を諦めていないことを示したのだった。
第14ステージはルヴェルからリュションへの214kmのコース。スタートしたときは天気もよく暑いくらいだったが途中で突然崩れる。雨と霰(あられ)が降り出し、ピレネー特有の霧が出てきたのである。転倒しなかった選手はほとんどいないほどの悪条件。 メルクスは繰り返しアタックを仕掛け、オカーニャはすぐそれに反応した。二人は一緒にマント峠の頂上を通過して下りにかかった。
曲がりくねった坂道は小川のようだった。メルクスは左コーナーでスリップして落車、後ろのオカーニャもつられて転倒して崖ぎわの車止めに突っ込んだ。メルクスは外れたチェーンを直して再び自転車にまたがった。オカーニャもすぐ立ち上がり監督車からホイールを受け取ろうとしたが、そこに霧と豪雨に視界をさえぎられたズーテメルクが一直線にぶつかってきた。さらに二人が続いて突っ込んできたのである。
この年のオカーニャはバスク一周、カタロニア一周で総合優勝してツールに乗り込んできていた。難攻不落といわれるメルクスを破るとすれば彼の登坂力以外にないと思われていた。その山の下りでマイヨ・ジョーヌを着たままリタイヤしなければならなかったのは皮肉な運命であった。
翌日、総合トップに返り咲いたメルクスはマイヨ・ジョーヌを着ることを拒否する。数日後、レースがオカーニャの入院するモン=ド=マルサンに着いたときは彼を見舞っている。その後両者は結局ツールで決着をつけることはできなかった。どちらかが不調だったり、どちらか一方が不参加だった。翌72年のオカーニャは第14ステージ終了後に肺炎のためリタイヤ。73年にオカーニャがツールを制覇したときはメルクスが不参加。74年にメルクスがトリプルクラウンを達成したときオカーニャは欠場していた。
この記事は安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)より引用し、coppiがまとめました。