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リシュアン・ファン・インプ(1946〜)は、一年の計画をツール・ド・フランス中心として組んでいた。当時としては珍しい取り組み姿勢だ。 1976年のツールはインプにとって八回目。前年に三回の山岳賞を獲得し、総合でも3位になっていた彼にとって、メルクスが不在で前年の優勝者テヴネも途中でやめていったこの年はまたとないチャンスだった。

身長167cm、体重57kg、プロ通算40勝以上を挙げているが、ツール以外で目立つのは最晩年の1983年のベルギーチャンピオンぐらいである。だが、15回出場したツールでは総合優勝一回、2位一回、3位三回と六回の山岳賞、それにステージ優勝九つを挙げている、75年に導入された山岳賞の赤い水玉ジャージを初めて着た選手である。

この年はまずフレディー・マルテンスの大活躍で始まる。ツール初出場のマルテンスはプロローグと続く第1ステージに優勝、さらに第3ステージの個人TTにも優勝してマイヨ・ジョーヌをアルプスの第8ステージまで着続けた。彼はこの後もステージ優勝を積み上げ、終わってみればマルクスやシャルル・ペリシェと並ぶ八勝をあげてスプリント賞を獲得、総合でも8位だった。

第9ステージのラルプ=デュエズで優勝したのはズーテメルクだった。しかしそこでマイヨ・ジョーヌを獲得したのはファン・インプだ。ズーテメルクは次のプール=ドワゾンからモンジュネーヴルへの第9ステージでも優勝を飾るが、リードしているのはまだファン・インプである。

こうして総合2位のインプと3位のズーテメルクの差わずか六秒で迎えたピレネーの第14ステージは、最後にペイルスルドとサン=ラリー=スーランというカテゴリー一級の山岳を含む139kmのステージである。ここでインプのジタン・チームのシリル・ギマール監督がゴーサインを出した。

ペイルスルド峠でアタックしたインプに付いてきたのはオカーニャだけだったが、彼もサン=ラリー=スーランでずるずる遅れていった。ズーテメルクはこの日だけで優勝したインプに遅れること3分12秒、彼のツールは終わった。その時点で第12ステージで独走優勝してマイヨ・ジョーヌを着ていたレイモン・ドゥリルに至っては12分以上遅れて圏外へ。インプ悲願の総合初優勝がなった。なお、3位にはこの年が最後のツール参戦となった40歳のプリドールが入った。

ツールにこだわるファン・インプ、翌77年のツールでも活躍したが、ラルプ=デュエズをトップで登っているときに追走するサポートカーに接触して落車、大きく遅れをとり、その遅れがそのままタイム差になって総合3位に終わっている。

この記事は安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)より引用し、coppiがまとめました。

 

Post Author: coppi