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ベルナール・テヴネ(1948〜)は1975年に当時のジスカール・デスタン大統領と、8年ぶりのフランス人チャンピオンを見ようと集まった五十万もの観客にシャンゼリゼで迎えられた。今では毎年恒例のシャンゼリゼでのゴールはこの年に初めて実現したのである。

テヴネはブルゴーニュの農家の出だが、17歳でフランスジュニア選手権4位、20歳でアマチュアチャンピオンになり、1970年の22歳でプジョー・チームとプロ契約を結んだ。

1975年はまだメルクスの力は衰えていなかった。アルカンシェルを着たメルクスは春先のクラシックで大暴れする。彼の六度目のツール・ド・フランス総合優勝を疑う者はいなかった。

この年のプロローグで勝ったのはツール初出場の若きイタリア人フランチェスコ・モゼールである。彼は第5ステージまでマイヨ・ジョーヌを着続けるが、第6ステージのメルラン=プラージュ16kmの個人TTでメルクスが優勝、マイヨ・ジョーヌはあっけなくメルクスのものになる。さらにメルクスは第9ステージ37kmあまりの個人TTでパンクしたにもかかわらず優勝している。だから第15ステージでよもやメルクスが潰れるとは誰も思わなかった。

7月13日の第15ステージ、アルプスのアロス峠の下りでメルクスが決然とアタックし、そのまま最後のプラ・ルーへへの登り口に到達したとき、2位のジモンディは18秒、テヴネは1分10秒も遅れていたのである。だが残り7km、突然メルクスのスピードが落ちた。テヴネは目の前にメルクスの姿が現れたのを見て“翼が生えた”ようにスピードを上げて追い抜き、ゴールでは逆に1分58秒差をつけてマイヨ・ジョーヌを奪い取った。あのメルクスが、実に2.5kmの間に2分近く遅れたのである。

翌日の革命解放記念日、アルプスのヴァール峠とイゾアール峠を越えるハードなステージだったが、翼が生えたデヴネはメルクスに対するリードをさらに2分23秒も加えたのである。沿道のファンが掲げるプラカードには「メルクス=バスティーユは陥落した」と書かれていた。

ツールの六勝目が夢と終わったメルクスはレース後に語っている。「最も強い奴が勝つことができるのだ。そしてテヴネが一番強かったのだ」。潔い言葉だが、この年のツールはメルクスにとってひどいものだった。第14ステージ最後のピュイ・ド・ドームの登りで狂信的フランス人から脇腹にパンチを喰らい、さらに第17ステージでは本当のスタート前の顔見せ走行中に転倒して顔面骨折、顎をワイヤーで固定して走り続けなければならなかった。

これまで71年に4位、73年には2位になっていたデヴネだが、この2年後にもう一度総合優勝を飾る。ツールに11回出場して二度の総合優勝は立派な成績である。なにより全盛期のメルクスを破ったのである。

この記事は安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)より引用し、coppiがまとめました。

 

Post Author: coppi