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ディートリッヒ・トゥーラォ(1954〜)は1977年のツール・ド・フランス初参加でまだ22歳、TIラレー・チームの若きドイツ人で、プロローグを制した。しかしすぐピレネーの峠が待ちかまえていた。

第2ステージはアスパン、トゥルマレ、オービスクと三つの峠を越える難コース。トゥーラオはすでに二つ目のトゥルマレ峠でヘンリー・コイペルやズーテメルク、テヴネ等の第一集団から2分半も遅れていた。そこに後ろから上がってきたのがメルクスだった。彼はトゥーラオの横につくと、「さあ、行こう」と声をかけた。

神様のような選手に声がけされた若者は一気に力を取り戻した。オービスク峠を越えると彼らは先頭グループに追いつくことができた。それどころか、このステージでトゥーラオはゴールスプリントを制して優勝してしまうのである。

第5ステージBはボルドーでの30km個人TTだった。2位のメルクスと差はわずか8秒、この日でマイヨ・ジョーヌはメルクスのものだろうと誰もが信じたが、終わってみるとトゥーラオはメルクスに50秒の差をつけて優勝してしまう。優勝候補のテヴネやズーテメルクより約1分速いタイムである。

しかし初日から十五日間マイヨ・ジョーヌを守り続けてきた第15ステージのアヴォリアズへ向かう山岳TTで、トゥーラオの力は尽きた。このステージで優勝者ファン・インプに2分近く遅れて15位へと惨敗、テヴネにマイヨ・ジョーヌを明け渡した。それでも第16ステージで集団スプリントを制して区間優勝を飾るが、次のマドレーヌ峠とグランドン峠を越え、さらにラルプ=デュエズを登る第17ステージでは、優勝したヘンニー・コイペルに遅れること12分半で、彼のツール初出場初優勝の夢は完全に敗れ去った。

だが、十五日間マイヨ・ジョーヌを着続け、ステージ優勝五回、最終日のTTでも優勝した彼をパリでシラク市長は「戦後スポーツ界でトゥーラオほど仏独友好に貢献した者はいなかった」と讃えた。

もう一つ、この年のツールで述べておかなければならないのはメルクスである。彼にとって最後のツールであった。1969年から出場すれば必ず複数回のステージ優勝を挙げ、積み重ねたステージ優勝は34勝までになっていたが、この年はついに一勝もできないまま12分半遅れの総合6位に終わった。体調を崩していたとはいえ、第17ステージのラルプ=デュエズはトップから14分も遅れるという屈辱のステージとなった。

この記事は安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)より引用し、coppiがまとめました。

 

 

Post Author: coppi