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Memories of the 1964 Tokyo Olympics 1

写真判定に見る個人ロードレースのフィニッシュ

 

コロナ禍で揺れる東京オリンピックだが、前回の1964年は日本中のサイクリストが興奮! その記憶を3回に分けて振り返る。第1回は個人ロードレースで最高位となった大宮政志さんにインタビュー。

大宮政志  1938年生まれ 岩手県出身。盛岡第一高等学校時代からインターハイのロード優勝など活躍し始め、日本大学時代は世界選手権、ローマオリンピックに参加。1964年の東京オリンピック個人ロードレースではトップと同タイム36位で完走。

 

明確な目標

――「おい、朝だぞ」と個人ロードレースの朝は杉原将一郎監督に起こされました。6時くらいに起こされて腹にたまるから肉も食べたかもしれませんがよく覚えていませんーー

1964年10月22日の朝、東京オリンピック自転車競技でトラック種目は惨敗だった。大宮さんは、「おい、頼んだぞ」と監督に声をかけられたのを覚えている。日本大学在学中から2年以上も20人ほどのオリンピック強化指定選手である大宮さんたちは八王子・高尾山・薬王院の敷地に建てられたプレハブ合宿所で寝食を共にした。

週1回、大宮さんは東京・大手町の電電公社に顔を出す他は毎日ほとんど走っていた。乗り込んだ。とにかく乗り込んだ。典型的な一日は、6時起床。食事を摂って8時に八王子を出る。湘南海岸の平塚から箱根越えで御殿場へ。籠坂峠を経て大月へ。大垂水峠を経て八王子に戻るのが午後1時過ぎ。トイレ以外では止まらずにサポートカーからの水と補食を摂りながら走った。別の日、回転練習として通産省の多摩・村山自動車テストコースを借り切って時速50kmで走るクルマの後ろにぴたりと2時間追走。酷暑の日はホースで水道水をかけられた。

 

大宮政志少年がレースに出たのは高校時代。進学先の盛岡第一高等学校には自転車部がなかったから教頭先生にかけあって同好会から始めた。

一途だった。

――ヘルメットやカスクなんてないので、布キャップをかぶり、下は毛糸で編んだパンツ。パンツは洗濯を二度するとフェルト状になる代物。手には軍手。でも、オリンピックに出る! そういう明確な目標を抱いていましたーー

他校の先生への直談判。

――盛岡農業高等学校にオスロオリンピックに参加した500mスピードスケートの選手だった工藤祐信先生がいるのを知り、どう話したのか覚えていませんが結果的に盛岡第一高の自転車部顧問になっていただいたーー

実用車からドロヨケを外し、一文字ハンドルにして、風が吹こうが雪が降ろうが練習した。盛岡駅前の佐々木自転車店が整備をしてくれた。実用車で仙台を起点に東北六県を巡る東北一周ロードレースを岩手県代表として2年連続で走り1957年の第6回と翌年第7回とも秋田県湯沢市〜山形県山形市138kmを区間優勝。1956年8月の鎌倉大仏前〜大磯の公道を閉鎖した第10回全国高校道路競争中央大会でも優勝した。ドロップハンドルのレーサーに乗ったのは高校3年のときに“英隆号”という貸与車を渡されてからだ。

 

日大時代は東海道を3日間かけての東京〜大阪ロードレースでも走って第1区(東京〜静岡)2位、第2区(静岡〜名古屋)1位、第3区(名古屋〜大阪)5位と活躍。経験はたっぷり積んでいた。1960年ローマオリンピックは予選会で優勝して個人ロードレースに参加したが後半でアクシデント発生。「変速ワイヤのタイコがひっこ抜けたんです。乗っていた片倉のフレームにはカンパニューロの変速機を付けていましたがワイヤはカンパじゃなかったのか‥」と大宮さんは振り返る。機材故障のリタイヤは仕方ない。

1964年東京大会に向けてひたむきに強化選手として励んだ。夏はヨーロッパで1カ月ほどレース転戦をしたので最新のモノも見聞したが、機材、特にブランドにこだわりは持たない。ただ、整備に手抜きはしない。60年代には琵琶湖一周自転車道路競争の表彰台常連だったが砂利道が多い当時、ライバル選手たちは「何で大宮の奴はパンクしないんだ?」と話題にしていた。実はこだわりがあった。「“かぶせ”をしたんです。細いチューブラータイヤの上にテープを挟んで、太いチューブラーを開いてからさらに被せて縫った。重くなるけれど絶対パンクはしない」、ニヤっと笑って大宮さんは秘密を明かしてくれた。軽さより信頼性だ。

朝日新聞に掲載された大宮とメルクス。下馬評ではどちらも自転車競技最終日の個人ロードで優勝を狙うライバルと紹介されていた

 

ナショナルジャージを着た個人ロードの選手たち。左端が大宮

 

終わった。寂しかった。

ついに迎えた東京オリンピック。前夜は何時に寝て朝は何を食べたかもよく覚えてない精神状態だが体調はとても良かった。1964年10月22日、八王子・御陵前のスタート&フィニッシュ地点には観客が詰めかけた。郷里からバスを仕立てて兄が村長一同を引き連れて応援に駆けつけているのも見えた。45カ国132人の選手がナショナルジャージで並んだ。天候は曇り、無風。

1周24.3kmを8周する距離194.8kmの個人ロードレースコースは、八王子市街を反時計回りする。短い起伏が4カ所、中盤に道幅がぐっと細くなり下がって上り返す高月ポイントが最大の難所。22km地点の御陵裏から下って高尾山駅前を左折すれば下り基調の甲州街道。集団のスピードは時速65km以上だったという。

「一瞬、応援の人たちはチラッと視界に入りました」。マークしていたのは前年世界選で勝っていたフランシス・バジエール(フランス)とエディ・メルクス(ベルギー)。フェリーチェ・ジモンディ(イタリア)、ルシアン・エマール(フランス)、アレクセイ・ペトロフ(ソ連)、ヘルベン・カーテンス(オランダ)らも見えていたそうだ。

スタート前に監督が大宮政志(岩手・電電公社)、山尾裕(石川・中央大)、赤松俊郎(宮城・自営)、辻昌憲(石川・中京大)の4選手を集めて「大宮をサポート」と指示したが、すぐに誰がどこにいるのか分からなくなった。

 

2周回目の稲荷坂(29km地点)で大宮は落車している海外選手に乗り上げてストップ、集団に遅れてしまう。直後はギヤがトップ固定で作動しなかったが走っているうちに直った。気を取り直しすぐに周囲の選手と追走体勢をとった。

 

5周回目の集団は約80名で、山尾と大宮はその中にいた。

「水はスタート地点側にある補給所で貰えました。最初にハンドルに付けたボトルにはレモンと蜂蜜をお湯で溶いたものと、小さいビニール袋に甘く煮たおかゆを詰めてポケットに入れました」

「毎周回、チラッと応援の人は見えるのでちゃんと走らないと申し訳ないと思っていたし声援が物凄く力になりました」

 

集団のスピードが上がるとギヤ倍数が足りずに52×14Tではそのスピードに付いていけなくなった。最終周回、高尾山駅前の直角左コーナーで先頭グループにいたバジエールとメルクスは落車した選手に乗り上げて遅れた。

全力で踏んだ。最後は脚が痙攣していた。優勝はイタリアのツアニンで4時間39分51秒(平均時速41.8km)。大宮も同タイムだが15m差で着順は36位。

後に記した文章。――繰り返しの連続である単調な練習こそが大切だという事を自覚し、更に限界と思われる練習の壁を破れば、その先には必ず栄光が待っています。大宮政志――

「たらればになりますが、コースに応じたギヤ倍数をアドバイスされた上で、回転力をつける指導がされていればと思います。でもフィニッシュラインを越えたときは正直、終わった、と。同時に寂しかった」と大宮さん。山尾裕選手は84位、赤松敏郎選手は85位、辻昌憲選手は途中棄権で個人ロードレースの幕は閉じた。

 

個人ロード出走前、手前から赤松、大宮、辻、山尾

 

チームロードでの走り。右から福原広次(福島・日本大学)、大宮、加藤武久(秋田・法政大学)、志村義夫(東京・自営)

 

 

 

Post Author: coppi