ベルナール・イノー(1954〜)は1978年にツール・ド・フランス初出場初優勝を遂げた。 この年は5月に突然に“人喰い”ことエディ・メルクスが32歳で引退を発表する。その前の冬にパトリック・セルキュと組んだ六日間レースでは、七回走って五回の優勝を飾っていただけに、あまりに突然の引退の知らせは自転車界を揺るがすものだった。しかしすぐに後継者が現れる。“穴熊”ことベルナール・イノーである。
イノーは1975年に23歳でプロ入りして以来ここまで、前年のリエージュ〜バストーニュ〜リエージュを含む40近い勝利をあげていた。直前のブエルタ・ア・エスパーニャでもステージ五勝をあげて優勝、さらにフランス・チャンピオンにもなっていた。しかしツールが始まる前の彼は国際的にはフランスの多くの若手有望選手のうちの一人に過ぎなかった。が、もともと個人追い抜き専門の彼の強みは個人TTだった。
さて、79年ツールはイタリア人及びイタリアのチームが不参加だった。理由はいろいろ取りざたされたが、前年のジロ・ディターリアにフランスのチームが参加しなかったことへの仕返しと言われた。
本命不在のままスタートしたツールでマイヨ・ジョーヌの行方はTIラレーのヤン・ラース、ルノー・ジターヌのジャック・ボッシ、再びTIラレーのクラウス=ペーター・ターラー、同じくヘリー・クネーテマン、C&Aのヨーゼフ・ブロイエーレと渡り、ポスト・メルクスの戦国時代を象徴する変転ぶり。
アルプスの第16ステージ、サンティエンヌからラルプ=デュエズへの241kmでズーテメルクが総合トップに躍りでる。(実はこのステージはベルギーのミシェル・ポランティエが2位に40秒近い差でゴールしたが、ドーピング・チェックの不正行為により失格。それをベルギー側が抗議してベルギーとフランスが反目。先のイタリア不参加といい、この年のツールは非常に後味の悪いものになった)
こうしてこれまで総合2位が三回というズーテメルクがトップに立ったが、彼は1950年のキューブラーと同様、翌日のマイヨ・ジョーヌを着ることを拒否した。だが、彼と2位イノーとの差は14秒、第20ステージは75kmの個人TTだった。すでに第8個人TTで59kmのTTを制していたイノーが有利と見られていたがその通り平均時速43.424kmで2位に4分10秒の大差をつけてイノーが勝ち、十人目の初出場初優勝を遂げたのである。
ちなみに翌79年のツール、話題の中心はディフェンディング・チャンピオンのイノーだったが、春先にイタリア最強のフランチェスコ・モゼールがツール参戦を表明した。前人気は大いに盛り上がったがその後にジロ・ディターリアで新鋭ジュゼッペ・サロン二に破れたためツール出場を断念。イノーに対抗するのは前年2位ズーテメルク以外に考えられなかった。
イノーとズーテメルクは戦いを繰り広げイノー優勢で進んだがアルプスに至ると、ラルプ=デュエズをゴールとする第18ステージでズーテメルクは残り10kmでイノーやファン・インプを引き離し、イノーに50秒差をつけて勝つ。だが、第21ステージの個人TTでもイノーがズーテメルクを1分以上の差で勝利して総合優勝をほぼ確定する。最終日のシャンゼリゼでもズーテメルクは果敢にアタックしたが最後は大集団のゴールで諦めてイノーが勝つ。1位のイノーと2位のズーテメルクの二人は、3位との差が2分以上を保っての好勝負だった。レキップ紙の見出しは『ブラボー、イノー、メルシー、ヨープ(ズーテメルク)』。この年のツールを象徴する言葉だろう。同時にイノー時代の始まりを疑う者はもういなかった。
この記事は安家達也氏の名著「ツール100話」(未知谷)より引用し、coppiがまとめました。
写真は、スコットランドの自転車ジャーナリストであるリチャードムーアの本「SLAYING THE BADGER」の表紙で、右がイノー。ちなみに邦訳はないがリチャードムーアの本「20 Great Stages from the Modern Tour de France」もツール関連書籍としてはオススメだ。