Memories of the 1964 Tokyo Olympics 2
連載第2回は本番前のプレ大会を紹介する。アマチュア選手として東京オリンピックに向けて一般選抜候補選手として励んだ森戸義忠さんにインタビュー。
上写真は、取り壊されて今はない八王子のベロドローム。日豪大会時はインフィールドが畑のような柔らかい土
手前の旗手は森戸氏
1960年代のアマチュア
1964年当時のサイクルロードレースは社会的に超マイナーで、スポーツ車に乗るマニアに向かってかけられる声は、「ニイちゃんは競輪選手かい?」がいいところ。
日本のロードレースが本場ヨーロッパ風に洗練されてきたのは、1970年に宇都宮でUCI世界選手権が開催されて新聞・テレビに取り上げられたことで、70年代は正式に選手登録しないでホビーレーサーが走れる草レースも盛んに行われた。しかし社会的に大きかったのはNHKが1985年から6年間放映権を得て主にBS1でツール・ド・フランスを放送したことである。
森戸義忠さんは1940年(昭和15)生まれ。東京都自転車競技連盟で80歳まで競技運営に携わったが、1964年の東京オリンピックには一般選抜選手として熱く走っていた。
港区に生まれ育ち芝浦の運河で泳ぎを覚えた森戸少年は、札の辻にあった貸し自転車屋の子供車ですぐ乗れるようになり、陸上でマラソンも走った運動好き。兄貴肌で近所の子供を引き連れて村山貯水池までサイクリングした中学生のときは大人から「遠くまで子供だけで行くもんじゃねぇ」と怒られた。
昭和30年代、印刷所で働き始めた。モーターボートが欲しくて貯金してディーラーに行ったが予算では買えず、帰り道でたまたま目についた山王スポーツで自転車を購入したのがレースにのめり込むきっかけ。山王は競輪選手でもあった高橋長敏さん経営の自転車店で港サイクリングクラブを主宰。もちろん森戸氏もクラブに加入した。
朝5時前に起床、文京区にあった後楽園競輪場で1時間みっちり練習して仕事に行くのが日課。週末はクラブランで丘があれば「あの電信柱まで先に着いたらタイヤをやるぞ」と長敏さんの掛け声ひとつでダッシュ競争。港区で集まった自転車乗りたちは地区対抗で闘う東京都民大会で覇を競った。国体初参加は1961(昭和36)年の秋田大会で東京代表として400m速度と4000m団体追抜きを走った。
東京代表ウエア着用の森戸氏(中央)。ちなみに右は後にシクロウネを興した今野義氏。ラバネロの高村精一氏も東京登録選手だった
この秋田国体遠征で東京チームは、後にオリンピック代表になる大沢鉄男が1000mTTで1位、佐藤勝彦(都立第二商高)がスクラッチ1位となり才能を光らせた。1963年・山口国体、1964年・新潟国体の東京チームでは大宮政志(電電公社)、志村義夫らも活躍した。森戸さんも一目置かれる存在だった。
東京都や港区の選手として研鑽を重ねていた森戸さんの自宅に1964(昭和39年)春、日本アマチュア自転車競技連盟から速達の封書が届いた。
1960年代の風景。陸上競技場を平バンクとして自転車運動会が開催されることもあった。先頭が森戸氏、中央は高橋長敏氏
1960年代の風景。アマチュア向けの大会もあり、参加者は変速機付きスポーツ車で参加。国体でも実用車の部と称するクラスもあった
日豪交歓自転車競技大会
東京オリンピック本番を10月に控えた3カ月前、一通の速達が届いた。
日豪交歓自転車競技大会
一般選抜 監督 選手殿
来たる七月十八、十九の両日東京都八王子市下長房町に新設される八王子自転車競技場において標記大会を開催いたしますが、あなたを一般選抜選手に推薦いたしましたので、この大会を目指して練習され成果を上げられるよう期待しております。
ついては宿舎は左記により配宿いたしましたので、来たる七月十二日正午まで御参集下さるようお願いいたします。
記
- 宿舎名 小田原旅館 八王子市東町三十八ノ一
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「オリンピック強化選手の大宮(政志)さんたちは山荘で合宿するんだけど、一般選抜の俺たちは八王子駅前の旅館」とその違いを森戸さんは教えてくれた。
実は、こういった招集は少し前から何度もあってその都度数泊して多摩御陵に完成間近の斜度45度あるコンクリートバンクを走りながら走路の問題点をつまびらかにした。「あそこの路面は出っ張りがある」と指摘すると工事職人がバンクの上から命綱でそこに降りて走路を補修していったそうだ。
日豪大会に召集されたのは総勢68選手。
豪州招待選手 4名
日本側選手
1.オリンピック候補選手 16名
2.一般選抜選手 16名
3.大学選抜選手 16名
4.高校選抜選手 16名
推薦選手の選考は、1964年の国体・新潟大会の成績を参考に、車連、学連、高体連よりそれぞれ推薦された。
日豪大会の種目はトラックが、スクラッチ、タンデム、1000mタイムトライアル、4000m個人追抜き、4000m団体追抜き。個人ロードレースだった。
オーストリアの選手団は、監督とマネージャーの他、強力な選手たちが来日。アイアン・ブラウン選手(30歳)はタンデムが得意で1958年メルボルンオリンピック金メダリスト。リチャード・パリス選手(22歳)は中短距離が得意。トム・デラニー選手(22歳)はロードが得意。ゴルドン・ジョンソン選手(18歳)はスクラッチが得意。
日豪大会で活躍した選手はやはりオリンピック候補選手たちだが、たくさんの有力なアマチュア選手がプレ大会に参加して熱く走ったことで、東京オリンピックがスムーズに運営されるリハーサルになり貢献したと言えよう。
森戸氏はしみじみと、「いじっている、乗っている、見ている。自転車はいつも楽しいな」と語ってくれた。
東京代表選手としてロードレース出走前の森戸氏。ロードレーサーはクロモリ、ヘルメットは被らず綿キャップが当たり前だった