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とんと昔、幻の東京オリンピック、あったとさ。 

1940年、“皇紀2600年記念”として目論まれた夢の国際スポーツ大会。オリンピック立候補で招致運動、実施決定から日中戦争勃発で開催返上などの経緯はWikipediaに掲載されている。よほどのスポーツマニアしか知られていない。さらに、Wikiにも書かれていないのが自転車競技。そこで調べてみましたよ。

上写真は1938年4月29日、『五色橋』の開通式であり、芝浦オリンピック自転車競技場(Olympic Cycling Stadium)竣工記念のカットです。

出典:公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館所蔵「第十二回オリンピック東京大会東京市報告書」

五色橋は首都高速1号線の高架下にある。実地踏査で気づいた。ここは、TOJ東京ステージでレース集団がレインボーブリッジを横に見て大井埠頭に向けて通過するルート上なのだと。1938年当時、現在は東京都港湾建設事務所や都営港南三丁目アパートが建っている9号埋め立て地に芝浦オリンピック自転車競技場が作られる予定だった。“五色橋”の由来はオリンピック旗の色である。

第十二回オリンピック東京大会東京市報告書にはイラストの完成予想図があった。

出典:公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館所蔵「第十二回オリンピック東京大会東京市報告書」

報告書を読んでも競技場スペックがない。しかし、第二候補地とされていた錦糸町公園自転車競技場の計画案では周長500m、幅員8m、スタンド2,000人収容となっていたので同規模ではないだろうか。芝浦の走路については「板張りで練習したよ」との証言(梶原利夫さんが聞いた故・高橋長敏氏証言)がある。

そもそもバンクのついたトラックレース用走路のイメージが当時の人達は解らない。そこで日本自転車連盟専務理事の北澤清氏がアドバイザーとなってまずは1/50に縮尺したコンクリート模型が作られた。総工費予算は当初60万円で、照明・音響設備、選手控室、食堂・テラス、直通電話、審判塔などを含んだ。

ちなみに9号埋立地の造成に必要な土木作業に大学生などの勤労奉仕団が結成された。埋立地にはフェンシング、バトミントン、ハンドボールなどを行う体育施設も作る予定でそれらは勤労者の夜間運動施設になるはずだった。

ロードレースは中仙道が開催候補地

スタート地点はボート競技場が作られた埼玉・戸田橋。予定距離150km〜200kmと報告書にはあったが100kmという話もある。100km説では中山道と川越街道の交差する地点がスタートで埼玉・浦和の坂までは道路が拡幅された。折り返し地点は熊谷。100km説のコースは昭和12年6月の第1回全日本自転車道路競争から使われていたそうだ‥‥。後日確認して情報を更新予定。

(参考:「自転車道路競争」月岡朝太郎/日刊プロスポーツ新聞社)

幻のオリンピックは開会式が昭和15年9月21日、閉会式が10月6日。自転車競技は10月2日〜5日(道路競争4日)で、種目は1,000m独走、1,000m一斉発走、4,000m団体追抜き、2,000m複座競争が予定されていたとさ。おしまい。

Post Author: coppi