産業革命により軽工業が発達したイギリスでは野心的な発明家が新たな変速機構をいろいろ発表している。拡張式チェンホイールも1900年には既に登場。しかし外装変速機は雨の多い気候事情などで実を結ばなかった。変速機が一般的になるのはずっと後、それはスターメー・アーチャーの登場を待たねばならなかった。
発明家のウィリアム・ライリーは現在でも広く使われている3段内装ハブを1902年(明治35年)に考案した。上は1903年にライリーが考案した初期のハブギヤ。ところが2段変速機を製造する会社ハブ・ツースピード・ギヤ社(Hub Two-Speed Gear)との専属契約でライリーの発明特許は会社に帰属する取り決めだった。よほど悔しかったのだろうか意趣返しで部下のジェームス・アーチャーが考案者としての個人特許で出願した(遊星ギヤ方式3輪自転車用変速機のアイデアは1883年頃に記録あり)。
同時期にヘンリー・スターメーも3段内装ハブを考案し特許取得している。その特許は一社独占とならないように、彼は自転車技術研究所に譲渡した。
すぐに内装ハブの製造に向けてライリー、アーチャー、スターメーと数人の特許関係者で3段内装ハブギヤの連合組合(シンジケート)が形成された。やがてシンジケートにはアメリカ、ドイツ、ベルギー、フランスからも内装変速機構に関する莫大な特許料が舞い込むようになった。こうして内装変速ハブの製造と特許を管理する体制がすぐに整った。
手際よくお膳立てをしたのは誰であったのか。このシンジケートを立ち上げたのは、元弁護士でラレー社の経営者であるフランク・ボーデンだった。
大英帝国の巨大独占企業誕生
香港で財をなした実業家ボーデンは、潰れかけのノッティンガムのラレー・バイシクル・カンパニーを手始めに、競合する自転車会社を次々買収してラレー社の規模拡大に邁進。優れた経営嗅覚をもつボーデンは、商業的に成功しているウィリアム・ライリーの設計した2速内装ギヤに注目した。そして3速ならもっと人気が出ると予測したのだ。
そこでライリーが契約しているハブ・ツースピード・ギヤ社に対抗するためにアーチャーとスターメーに内装ギヤ製造会社を1903年に創立させてラレー社の傘下に収めてしまった。当時内装ギヤを製造するメーカーは他にアームストロング・トリプレックス、スターレー社など数社あったが、巨大企業ラレーがバックに付くスターメー・アーチャーには価格競走で太刀打ちできなかった。やがて年間10万個の内装ハブギヤを生産し、第一次大戦後にはスターメー・アーチャー社だけが生産していた。まさにラレー社の一人勝ちの状態だった。
大量生産による貿易摩擦
巨大企業のラレーは多くのブランドを傘下に収め1910年(明治43年)〜50年(昭和25年)には英国市場の75%を占めるほどの独占企業となった。モーターサイクルメーカーにもギヤボックスを供給し、イギリス最古のロイヤルエンフィールド、さらにトライアンフ、BSA、高級なサンビームの自転車部門までも吸収し、パイプメーカーのレイノルズ、革サドルのブルックスまでも含む巨大コンツェルンとなった。こうした一大自転車産業の興隆と輸出の功績でボーデンはサーの爵位を英国王室から与えられている。が、成功者の陰には敗者ありで、ボーデンと対立したハブギヤ発明者の一人ライリーの晩年の消息は分からない……。
第一次大戦後は息子のハロルド・ボーデンによる経営となり、ダンピング競争に陥った轍を踏まないためにアメリカ、カナダ、インド、南アフリカ、マレーシアで現地生産を進めた。こうして英国から生産コストの安い海外に生産体制が移管されていった。現在はラレーの巨大工場は英国にはなく、身売りや吸収合併を繰り返して商標のみが存続している。それでも自転車産業の礎を築いたフランク・ボーデンの名はラレーと英国発の内装変速ハブギヤ、スターメー・アーチャーと共に英国の誇りとして語り継がれている。
スターメー・アーチャーの代表作「AW」(ワイドレシオ3速)は1937年(昭和12年)から現在まで改良され続け世界中で販売中
変速機コラムは六城雅敦さんがCYCLE SPORTSに2017年6月号から2019年8月号まで25回連載した「変速機を愛した男たち 温故知新」をベースにしています。©️六城雅敦、リライトcoppiです。