“塞の神”と書いて、さえのかみ、と読む。巡り会ったのは池袋の裏手にある公園の片隅。
小学館デジタル大辞泉では、《「さえ」は遮る意》悪霊が侵入するのを防ぎ、通行人や村人を災難から守るために村境・峠・辻などに祭られる神。みちの神・たむけの神・峠の神・岐(ふなど)の神・道祖神(どうそじん)・さいの神などの言い方があるそうです。
古い石塔と邂逅。場所は池袋本町公園。背の高い樹木、築山、子供の遊戯施設、老人が憩える木陰のベンチ、バリアフリートイレなど充実している素敵な公園の北端にポツリと場違いな感じであった。かなり古い。
正面の浮き彫り、 “見猿・言わ猿・聞か猿”は風雨で輪郭が削られていた。左右の雄鶏と雌鳥の保存状態はそれなり。だが正面の水鉢や花立は半分壊れている。誰にも顧みられない石塔らしく、哀しい。
通りかかった人に聞くと、「あっちの通りにあったのが移転された」との情報。その通りで個人商店の八百屋で聞けば、「あの駐車場にあった庚申塚ですね」と判明。
2021年現在、タイムズ21の看板がある場所に庚申塚があった
石塔は庚申塚の一部、村境に祀られた塞の神と言ってまちがいないだろう。
庚申講の「申」は干支で猿に例えられ、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。庚申塔は街道沿いに置かれ、塞神として建立されることもあり、悪霊が侵入するのを防ぎ、通行人や村人を災難から守る。
正面の文字に「寛文」とあり「二暦」と読めるので1662年、第4代将軍・徳川家綱の時代に建立されたのだろう。今でこそ繁華街・池袋の裏手となる立地だが、江戸から中山道への道すがらにあったものだ。とはいえ豊島区ホームページによれば<江戸時代の豊島区は7つの村に分かれていました。人口はわずか3000人位だったと言われています>とあり、この池袋村は城北の僻地。そんな場所でも、塞の神は村人をしっかり護っていてくれたはず。
国土地理院「1860年頃 江戸」。中央は小石川、下に雑司ヶ谷、さらに下が池袋村
コロナ禍の今だからこそ、次の訪問では生花を飾り、石塔をきれいにしようと思う。