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「三光舎のフリーホイールのスムーズぶりは秀逸で、ロールスロイスの回転部を作っていた英国のフリーと比べても負けないほどだった」と、自転車仲間K氏から聞いて改めて振り返る気になった。上写真は1960年代のディレーラー普及期に流通した三光舎の3号ハブと4段ボスタイプフリーホイール。

1952年に記された三光舎の経歴書によれば、三光舎の沿革は久野延利氏が明治45年(1912年)に東京・小石川で歯科機械製作所を始めた。大正2年(1913年)に豊島区西巣鴨に移り自転車用バルブ及び救命用バルブの製作を開始。大正5年(1916年)、自転車用フリーホイールの製造開始。そう、フリーホイールから始まったと言ってもいい。

大正期の東京ではフリーホイールを川野製作所、木下製作所、大藤製作所も作り、ギヤは小山製作所、藤野製作所、澤田鉄工所が作っていた。(輪界信用通信社)

第二次大戦中に三光舎は陸軍航空本部の監督工場に指定されて中島飛行機に協力。敗戦の1945年に平和産業に戻り自転車部品の製作販売を開始。そして1947年、第1回自転車ツーリストトロフィー選手権大会に参戦して技術優秀を以って商工大臣賞を得る。

自転車ツーリストトロフィー選手権大会は東京〜大阪を3日間で走る伝説のステージレース。平和産業に転換した企業が覇を競った。

「戦後の東京はモノがなくてね、流通しない。関西でシマノのギヤが作られても関東には来なくて三光舎だけだった」と証言してくれたのは東京・三田で現在もシクロサロン植原を営む植原郭氏。ここで掲載した画像はほとんど植原氏のコレクションによる。

「3号ハブはフランジがアルミで胴はスチールでね、オリンピックが近づいた頃に4号ハブでクイックレリーズになった。3段フリーホイールはフラッシュタイプなので中子が表面に見えなくて上を外そうとすると潰して壊しやすい。5段になると全てボスタイプになった。初期のフリーホイールはカチッと出来ていたから使っていくうちにダレてくるとスムーズになる印象だったなぁ」と植原氏。

戦後のヘリコイド式変速機取り付け説明書。実用車への装着を意図して作られた

以前の記事で何度も書いたが1951年の第一次サイクリングブームでの自転車は実用車や軽快車であり10スピードのサイクリング車は1964年の東京オリンピック以降に普及した。

  

1960年代の三光舎カタログ。変速機がメインで、ハブとフリーホイールを掲載

60年代は3段、4段、5段変速の過渡期。70年代まで長いこと10スピード時代が続いた

だが、三光舎は焼け跡の東京でいち早く外装式変速機を作り、NCTCメンバーに使わせて洗練を重ねた。久野延利氏のモノ作りにかける情熱と素養は並外れていた。

ツーリストトロフィーの1947年に商工大臣賞を受領後、1948年には通産省技術委員、産業合理化委員、外国研究委員などの公職にあって“技術の鬼”と言われた。

三光舎の変速機で最も有名なのは1966年発売のプロキオン。世界初の軽合金変速機とカタロブには記されていた。その2〜3年後に倒産するがその時点でチタン削り出し製品も試作していたという。

プロキオンのネイキッドな機能美は色褪せない

Post Author: coppi