某日、台東区の稲荷町と谷中の墓地で自転車の歴史散歩しました。
いきなりですが、空気入りタイヤは1887年(明治20年)にスコットランドの獣医であったジョン・ダンロップが、息子の三輪車が凸凹道でも転びにくいようにゴム袋をタイヤに巻きつけてやったという美談が有名です。息子はレースで速く走って勝ちたかった。ダンロップはタイヤに貼り付けられていたゴム帯を張り替えようとしたとき動物のお腹にガスが溜まると膨らむことにヒントを得て、試行錯誤を重ねてチューブ式タイヤを発明したとのお話。
なぜダンロップのエピソードから始めたか。それはゴムの話が稲荷町のテーマだからです。生ゴムに硫黄の加硫材を配合して加熱すると、化学変化でゴムの弾性や引っ張り強さが生まれる。日本で初めてゴムの熱加硫法に成功した“三田土ゴム製造”(後に改称:土谷護謨製造所)が東京市浅草区神吉町15番地(現:台東区東上野5-15)に創設されたのは明治19年。その偉業を刻んだ石碑が清州橋通り沿いの台東区立清島温水プール入り口脇にある植え込みにあります。ちなみに、ここは元小学校であり、HOLKSの横尾明さんが子ども時代に学ばれた場所。
ちょいと走って荘厳な博物館や美術館の建築を横目に上野の森を抜けて谷中の寺町へ。谷中4丁目2に徳川家康ゆかりの瑞輪寺はある。ここには江戸のお城と市中に善福寺の湧水を利用して用水路を整備した偉人の大久保主水(主水=MONTO)の墓がある。しかし、自転車乗りにとっての偉人の墓がある。その人こそ梅田元晴。
主水の墓に通じる道に八角形井戸があり、その近くに梅田家代々之墓があって石碑がある。読んでください、梅田元晴のご子息が記された元晴さんの偉業。
梅津元晴は明治初期にフランスで学び、陸軍戸山学校で下士官の教育をし、明治29年に自転車隊を組織。だが自転車はすべて輸入車だったのでそれを国産化しようと考えて陸軍を辞して自転車製造と普及に取り組んだ。石碑にはそう刻まれている。
実際のところは宮田自転車が明治33年に量産化を開始するころに顧問といった立場で設計の助言をしたらしい。宮田自転車はそれ以前に試作車をつくっただけだった。明治時代の雑誌「輪友」(明治34年創刊)8号には梅梅津元晴の興した「旭商会」の広告が掲載されていて自転車販売や修理をしている。陸軍兵器監部から依頼されてフランスのジェラール式折り畳み自転車のコピーを製作して納入した。
元晴はやがて電線の製作に軸足を移し、古川銅山の銅を素材に「梅津金線会社」を興して第一次大戦では飛躍的に発展させたが、戦後の大恐慌で倒産した。ドラマチックな人生ですね。
穏やかな一日、自転車の聖地をめぐる歴史お散歩、不定期でまだまだ続きます。