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81年前の話だが、マイホームタウンの池袋が火の海になった。

第二次世界大戦でアメリカが東京への無差別大空襲を実施したのは、1944年11月24日から翌年8月15日までの106回。特に大規模だったのは1945年3月10日夜の下町に対するもので被災者100万人を超え、死傷者は9万5000人で当時新聞は“東京大焼殺”と報じたという。

 

昨日、池袋・南池袋公園において32回目の、『4.13根津山小さな追悼集会』が行われた。

主催の実行委員会による呼びかけ文を引用する。

==終戦間近の昭和20(1945)年4月13日深夜から14 日未明にかけて、アメリカ合衆国陸軍の巨大爆擊機 B29約350機が、池袋など豊島区の大部分をはじめ、板橋区、北区・新宿区・文京区などの一帯を襲い、死者約 2500人、焼失家屋約 17 万戸という被害を出しました。豊島区では区の3分の2が焦土と化し、その人口の 70%に及ぶ約16万人が被災、778人の尊い人命が失われました。当時、池袋の東側には根津山と呼ばれる雑木林があり、現在の南池袋公園にあたる根津山の一角には、空襲で亡くなった方々のご遺体が毎日のように運ばれて仮埋葬されました。==この空襲は、城北大空襲と名付けられている。

 

根津山小さな追悼集会に参列して献花したが、150人ほどの高齢参加者の背後では、若いカップルや子どもたちが芝生に寝ころび、うららかな陽光を満喫。数人が集会に関心を寄せ、集会の進行を見つめていた。

 

“根津山”とは正式な地名でなく通称。東部グループの始祖である根津喜一郎氏が明治31年に購入して旧制武蔵高等学校設立にあたり寄付した広大な私有地(池袋西口〜豊島丘女子学園エリア約1万6600坪)で、大半が雑木林や森の状態で、「空襲時には大きな防空壕が2つあったので、多くの人が避難して被災した」と、実行委員会の青木哲夫さんから教示を得た。

 

さらに青木さんが指差すのは、南池袋公園の一画にあるモニュメント。

根津山の模様を描いたレリーフで、人物の左側にある溝は、「公共待避壕といって通りがかりの人が身を隠す穴です」と教えてくれた。

アメリカはこの年8月6日に広島、9日に長崎に相次いで原子爆弾を投下して合わせて20万人以上の殺傷をし、日本は無条件降伏した。

それにしても、戦いは無慈悲であり、愚かだ。

江戸時代の徳川幕府は鎖国で250年ほど平和な世を築いた。日本は島国で、江戸の人口はとても多かったが、自給自足ができていた。

鎖国とはいえ、中国や南蛮から知識・技術を学び、交流もあった。

寺小屋で子供は学び、読み書きができた。

若いころ、ボタンひとつで人類が滅びる悪夢を思い、子供を作ることを躊躇う時期があった。

しかし今、孫がいて血の連鎖を楽しんでいる。

子孫の未来に、戦争がないことを祈る。

Post Author: coppi