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房総に惹かれた人物をご紹介。

近江屋甚兵衛は、1766年(明和3年)に江戸・四谷に生まれ、11歳で海苔問屋の奉公人になり、やがて海苔商人となった。後に甚兵衛、妻と子供を亡くして悲しみを乗り越えようと、残りの人生を海苔作りに注ぐことに。甚兵衛、54歳の春のことでした。

江戸前の海苔が作られるようになる話は、『君津市漁業資料館』に行くとよくわかります。この辺りで海苔養殖は初めて、甚兵衛の指導のもとで成功して“上総ノリ”として世に出た。

上総ノりは黒海苔と青海苔のバランスが絶妙で香りと歯ごたえが絶妙

君津市漁業資料館の背後は甚兵衛ゆかりの妙味山連山と人見神社がある

所在地:千葉県君津市人見1294-14(月曜・祝日休館)

海苔の生態は謎でしたが、川の水が流れ込む遠浅の海にヒビを立てると、必ず「海苔が付く」ということを長く海苔商人してきた甚兵衛は知っていました。

54歳の甚兵衛は江戸から近い浦安で、村の名主にヒビを立てて海苔つくりをする考えを話すと、近隣の村々や役人も賛同してくれましたが、当時の浦安は貝がたくさん獲れるし鴨猟をする人もいて、ヒビを立てることを拒まれた。

そこで浦安をあきらめ、養老川河口の五井(市原市)を訪ねましたが、まったく相手にされず、あきらめて小櫃川の名主を訪ねたがここでも鴨猟との兼ね合いでヒビはダメ。そこで甚兵衛は房総半島を南下して木更津を訪ねたがダメ。それでもあきらめずに江戸に戻って俳句の師に相談。すると俳句仲間つながりで藤吉という人につながれた。

 

藤吉からの伝手で人見村(君津市)の名主らに海苔つくりのヒビを立てさせてほしいと説得すると、やっとかなってわずか6人の賛同者で海苔つくりがスタート。ときに甚兵衛55歳、1821年(文政4年)の秋でした。

房総路を辿った甚兵衛、海苔つくりが軌道にのると、やがて製造・販売のトラブルで裁判も。海苔から離れ、70歳になると若者に読み書きを教え、好きな俳句をよみながら静かに暮らし、79歳(1844年:天保15)で生涯の幕をおろしました。戒名は海山苔養信士、人見山の麓にある清蓮寺に墓と句碑<朝凪や 沖黒々と 海苔だたみ>があります。

後世になり海苔の生育は明らかになった。春から秋の間に海苔は、牡蠣の貝殻のなかで糸状体と呼ばれる菌として過ごす。秋になると、糸状体は殻胞子というタネに変化して海中に流れ出て、それが少しずつ海苔の葉を大きくしてゆく。真冬にその葉を摘み取る。これを明らかにしたのは、イギリスの学者キャサリン・メアリー・ドリューで、1949年(昭和24)でした。

 

ヒビには、竹の棒がよく使われます。遠浅の海にヒビを刺して、それに網をつなげて海苔を付着させる。

君津市漁業資料館で古老に聞きました。

「昭和30年ころまで、この周辺は沖縄のようなきれいな遠浅だった。製鉄業の進出で埋め立てがあって海苔作りは県の指導でやめることになった」という経緯だが、「海苔つくりは大変な仕事でね、母は自分に継がせたくなかった」という。

 

21世紀になり、房総半島では富津と木更津の2カ所で海苔作りが継続されているが、海苔つくりの人は、「海水温が高くなり、成長過程での病気対策もあったりで、いつまでやれるか」との現状とか。だが、今でも新富津漁業組合を訪ねれば“江戸前ちばのり”が焼きのり450円、焼きのり700円で買える。港のスロープには海苔漁につかう“てんま船”(昔はひとり用の木造小船)に陽光が降り注ぎ、寄せる波はきれいだ。

 

Post Author: coppi