Memories of the 1964 Tokyo Olympics 3
1964年オリンピックの記憶を振り返る。最終回は自転車競技を写真集に残した横尾双輪館の横尾明さんに聞いてまとめた。
上写真は1965年の「LE CYCLE 」に大きく紹介されたVELO CLUB TOKYOの写真集の記事
「LE CYCLE 」の表紙。後に横尾さんは編集長で高名なイラストレターのダニエル・ルブール氏が写真集を褒めていたと聞いて喜んだ
横尾双輪館
ロードレーサー好きな団塊世代マニアに“HOLKS”ブランドで知られる横尾双輪館はステータス性が高い。店主の横尾明さんは1934年(昭和9年)1月10日生まれ。そのバックボーンにまず触れる。
関東大震災(1923年)で道路整理のため建て替えられた長屋に横尾家はあり、そこで父親が1925年に横尾自転車店を創業。祖父は木版画の刷り師で紙に絵を刷る仕事をしていた。父の姉が嫁いだ先が竹町の大沢製作所という自転車フレーム製造業だった関係で父はそこで修行して自転車屋を始めた。中学校を卒業した横尾さんは蔵前工業高校定時制に通学しながら家業を手伝う。
後楽園競輪場が1949年に建設されると、卸問屋がお抱え選手用のお下がり競争用自転車を提供してくれたのでそれで走るようになる。1952年、18歳の夏にインターハイでポイントレース2位に入賞して秋の国体(仙台・宮城野)では東京代表選手に選ばれた。国体道路競走には実用車が使用されていた時代だった。
2021年現在の横尾明さん。壁の写真パネルのデローザは、実物が天井から吊るされて展示されている。マニア必見の一台である
1953年、横尾さんはレースをやめてツーリングの世界に移った。戦前からあるNCTC(日本サイクリスツ・ツーリング・クラブ)に入会。このクラブは英国伝統のサイクリングスタイルだが、後に仏蘭西スタイルを好む鳥山新一氏を中心する仲間がJCC(ジャパン・サイクリング・クラブ)を結成。欧州スタイルのスポーツサイクル文化が徐々に花開いていった。
1957年に横尾自転車店は有限会社横尾双輪館に改める。“双輪館”の名は神田アルプスの近所にあったオートバイHOSK号の製造元である「山田輪盛館」を真似た。当時、「双輪」の屋号も横尾さんの感性にはカッコいいと響いた。後に二科会会員で芸術に理解ある杉野安氏に「いい名前」と褒められた。
HOLKSの由来をホームページに記した。――1950年代、日本ではまだサイクルスポーツ文化はなくて実用車がほとんど。ドロップハンドルの自転車といえば競輪用でした。一方、ヨーロッパではツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアなどのレースが盛んで自転車がスポーツ文化として確立していました。日本にもそんな自転車文化を根付かせたい…、そんな思いでHOLKSは誕生。元々はVOLKS(フォルクス:ドイツ語で国民・民衆の意)でしたが発音しやすいように“V”を“H”に変えてホルクスになりました。――スポーツ自転車幕開けのメッセージだ。
カンパニョーロは当初、グレース自転車や土屋製作所、後に諸井敬商事(諸井氏は昭和モータースから独立=昭和モータースは英国のBSAオートバイがメインだが自転車部品のGB、ブルックスも扱っていた)から仕入れた。HOLKSフレームは1953年、元競輪選手が始めた天粕、熊坂に製作を依頼したが1958年に創業間もない東叡社に替えた。
「クロモリフレームは、ジャック・アンクティル時代のスケルトンが一番しっくりする」と横尾さん。アンクティルも横尾さんも1934年生まれだ。「コッピの時代では古すぎる。メルクスの時代では新しいというかもう選手仕様で無理がある。昔から走っている人ならアンクティル時代のクロモリ自転車が長距離をこなしても楽に走れることがわかるはず」と横尾さん。だからHOLKSのスケルトンは、ダニエル・ルブールのイラストに記されているスケルトンなどを参考に決められた。
実は、鉄の自転車よりも紙の仕事に興味があった。木版画の刷り師であった祖父や父の兄弟たちが千代紙を刷ったり、文明堂の包装紙を手がけたりで、そんな勉強もしたかったから桑沢デザイン研究所に2年間通った。でもやっぱり横尾さんは自転車が好きだった。
50年代の自転車雑誌には、英国スタイルの論客では和田文平氏、仏蘭西スタイルの論客には鳥山新一氏が健筆を振るっていた。鳥山氏は1952年に通産省の産業支援で自転車産業振興会により欧州に派遣された。そこで彼はヨーロッパのスポーツサイクルは大小の工房が切磋琢磨している様を見聞、研究材料としてフランスのルネ・エルス、イタリアのレニヤーノなどの完成車、さまざまな高品質パーツを日本に持ち帰った。
鳥山氏が持ち帰ったレニヤーノは丸石自転車に渡され、一時期それを借り受けて横尾双輪館に展示したこともある。欧州スポーツサイクル研究は1964年の東京オリンピックに向けて日本が国産自転車で立ち向かうためのプロジェクトでもあり、有力選手にもロードレーサーが貸与された。
1962年に八王子で開催された大会を横尾さんは観戦して仏領インドシナ選手の最新機材を目撃、「樹脂のディレーラーを初めて見てびっくり」した記憶は強烈だった。サンプレックスのデルリン樹脂を採用したパーツである。
東京都自転車競技連盟の役員になったのは1962年。オリンピックのために役員を増やさなければ、と森泉正明役員が言い出して近くの自転車店に声がけした。最初は父親が行くことにしたが、若い人がいいとの意向を受けて横尾さんが役員になった。まだお茶の水に木造の岸記念体育館がありアマチュア自転車競技連盟がそこに入っていた頃で、新米3級審判員になりたてだから呼び出されてはストップウォッチ講習などを受けていた。
VELO CLUB TOKYO
関西の大手卸売商である城東輪業社の寺島常蔵氏からは「東京オリンピックは千載一遇のチャンスだからちゃんと写真撮影をして記録を残すべき」と諭されて、そのためにVERO CLUB TOKYOというクラブを作った。
VELO CLUB TOKYOは、横尾双輪館が連絡先で、4人のメンバーで構成。横尾明、沼勉、藤本繁、有吉一泰。沼氏と有吉氏は以前レニヤーノを飾ったときに見学にきたマニア、前述のJCC会員だ。写真集のレイアウトは桑沢デザイン研究所時代の友人である皆川節夫氏が担当、親戚が営む印刷所が、「代金は売れたらで良い」と応援してくれた。
写真集「TOKYO OLIMPICS 1964」は箱入り80ページで仕上がった。評判は上々。海外渡航する人が手土産に持参したりで海外でも知られ、1965年の「LE CYCLE 」に大きく紹介された。
――UN DOCUMENT EXTRAORDINAIRE:LE LIVRE D’OR DES JEUX OLYMPIQUES CONSACRE AU CYCLISME――
写真で自転車競技の美を的確にデザインして掲載した。どんなに時代が移っても紙の記録として残された記憶は色褪せない。
手前がVELO CLUB TOKYOの写真集。奥は写真集をそのままベースにして役員の文章や記録を盛り込んで制作されたアマ車連の報告書
団体ロードのスタート風景。各国チームには自衛隊ジープがサポートカーとして徴用されてレース運営に貢献。昭島を通過するルート
1967年は実に大きな転機だった。横尾さんはこの年に世界選手権が開催されたオランダにVELO CLUB TOKYO仲間の沼勉さんと初渡航。きっかけはパリ在住でUCI(国際自転車競技連合)の副会長を務める加藤一氏が「本場の物を見なきゃダメだ」と言ってくれたからだ。
後日談になるが1972年、高橋長敏氏と杉野安氏が、イタリアでフレーム職人修行をしてポリアギからデローザに移る長沢義昭氏を激励に行くことになり、高橋さんが長沢氏の作ったデローザを注文してきた。6台が木箱に梱包されて届いたその内の1台を仕入れて(一度は販売したが出戻った)そのデローザは今も横尾双輪館に飾ってある。
デローザ扱いはこの後からで、直接イタリアの工房に訪れて親交を重ね信頼関係を結んだ。1976年、カンパニューロのトゥーリョ氏、ヴァレンティノ氏が来店。翌1977年にはロン・キッチン氏が来店。東京オリンピックで走ってからプロデビューして大活躍したエディ・メルクス氏も1983年に来店している。
実は記録を残したのはVELO CLUB TOKYOだけではない。八王子市役所に勤務する西澤幹夫さんらが、開催1年前から道路工事の進捗、レースの模様を8mmカメラで撮影して「私たちの八王子 オリンピックの記録」と題した映像にまとめている。
ともあれ写真集「TOKYO OLIMPICS 1964」は日本の自転車文化にとっても貴重な一冊になった。
選手村では世界中の選手、ジャーナリスト、関係者が食事を楽しんだ。腕っこきの調理人が誰にも喜ばれる料理作りに腕を振るった photo●杉野 安
表彰式に着物姿の女性たちが動員された。八王子は絹織物の産地であり、シルク号で知られる片倉自転車もほど近い福生市にあった photo●杉野 安
(参照元:Youtube/Olympics)